ムアコック時代
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1963年にムアコックとバラードは、ウィリアム・バロウズやエドゥアルド・パオロッツィのような、実験的な作品の出版を構想した。 ムアコックがカーネルから編集長を引き継いだ最初の号は1964年5・6月号で、巻頭にジェームズ・コーソーンを掲げ、バラードの中編「昼夜平分時」、ウィリアム・バロウズ『Dead Fingers Talk』の書評、ブライアン・オールディス、バリントン・J・ベイリー、ジョン・ブラナーの短編小説を掲載した。またムアコックは、バロウズへのインタビューでの「宇宙時代においては、作家はそれにふさわしい技法を生み出さなくてはならない」という発言を取り上げている。 またムアコックの編集方針を示したが、その中で最も議論を呼んだのは、1964年9-1月号に掲載されたラングドン・ジョーンズ「覚えているよ、アニータ…」で、セックスシーンを含んでいたことから読者欄で論争を巻き起こした、このために定期購読から離れる読者もいたが、全体では発行部数は増加した。 ムアコック自身も、ペンネームであるジェームズ・コルヴィン名を含めて作品を執筆し、その中には伝統的なストーリーもあったが、1965年8月に始まった「ジェリー・コーネリアス」シリーズは非常に実験的な作品だった。1966年9月にはキリストの時代にタイムトラベルする中編「この人を見よ」を発表し、ネビュラ賞を受賞。バラードも1966年に文学雑誌『Ambit』で発表した作品で、1966年6月「あなた、コーマ、マリリン・モンロー」、1967年3月「下り坂自動車レースとみなしたJ・F・ケネディの暗殺」など論争的な作品を掲載した。 多くの作家が、『ニュー・ワールズ』では実験的な作品を発表できると気づいた。イギリス人作家ではチャールズ・プラット、デヴィット・I.マッソン、バリントン・ベイリーがこの範疇で、ムアコックはアメリカのジョン・スラデック、ロジャー・ゼラズニイ、トマス・M.ディッシュらにも執筆を依頼した。ゼラズニイは「For a Breath I Tarry」を1966年3月に発表、ディッシュはいくつかの短編を書き、1966年12月から長編「虚像のエコー」を連載した。ディッシュはこの作品を出版する出版社をアメリカでは見つけられなかったと述べている。 1960年代中頃には、ムアコックの送り出す実験的な作品に「ニュー・ウェーブ」という呼び名が使われ始め、『ニュー・ワールズ』もこの運動の主要な出版元とみなされた。またムアコックは既存の読者のために伝統的なSF小説も掲載し、SF史家コリン・グリーンランドは「誌面の刷新は彼がいうよりはゆっくりと進んだ」と述べている 伝統的SFとしてムアコックの買った中には1965年6月のヴァーナー・ヴィンジの第一作「Apartness」もあり、またボブ・ショウや、初期のテリー・プラチェット作品、1965年3月にはA.C.クラーク「太陽帆(Sunjammer)」などがある。
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