ミルチャ1世からラドゥ大公の時代
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「ワラキア」の記事における「ミルチャ1世からラドゥ大公の時代」の解説
バルカン半島全体が、勃興したオスマン帝国の枢要部分となることで、ワラキアはトルコとの常習的な対決で時を費やされるようになった。ミルチャ1世(ミルチャ老公、在位1386-1395年、1397-1418年)時代末期にはワラキアはオスマン帝国の属国となった。 ミルチャ1世は初め数度の戦い(1394年のロヴィネの戦いを含む)でトルコを敗退させ、敵をドブルジャから駆逐して短期間ながら自身の支配をドナウ・デルタ、ドブルジャ、シリストラにまで広げた(1400–1404年頃)。彼は、神聖ローマ皇帝ジギスムントと同盟しながら、一方でポーランド・ヤギェウォ朝とも同盟を結んだ(どちらの国ともニコポリスの戦いで同盟した)。1417年、メフメト1世がトゥルヌ・マグレレとジュルジュを支配下においた後、ミルチャ1世はオスマン帝国の宗主権を受け入れた。この2つの港町は短期間の中断があったものの、1829年まで軍直轄地としてトルコの支配下におかれた。1418年から1420年、ミハイル1世(英語版)がセヴェリンでトルコを負かしたが、ミハイルはトルコの反撃で戦死した。1422年、ダン2世(英語版)が、ハンガリー軍人ピッポ・スパノ(英語版)の助けを得てムラト2世軍を打ち負かし、対トルコ危機はしばらくの間ワラキアから遠ざかった。 1428年に和平が結ばれるとワラキア国内の危機に入った。ダン2世はラドゥ・プラスナグラヴァ(のちのラドゥ2世)から自身を防衛しなければならなかった。ラドゥは、既定のワラキア公に対抗して、率先してボイェリ連合と手を結んだ(当時、ボイェリらはトルコによる抑圧に応じて公然と親トルコとなっていた) 。1431年にボイェリ側は勝利を収め(ボイェリが後押しをしたアレクサンドル1世アルデア(英語版)がワラキア公となった)、アルデアはおよそ5年間公位にあったが、ボイェリらはアルデアの異母弟ヴラド2世から継続的に攻撃を受けた。そのヴラド2世にしても、やはりトルコの大宰相府と神聖ローマ帝国の間で妥協を図ろうとした 。しかし1444年のヴァルナの戦いでスルタン・ムラト2世軍にキリスト教国連合軍が大敗した後、ヴラド2世はトルコに従属する他なくなり、ハンガリーの将軍フニャディ・ヤーノシュと敵対するようになる。 その後の10年間は、同じバサラブ朝ながら、ダン1世に始まるダネシュティ家とダン1世の甥のヴラド2世に始まるドラクレシュティ家との公位争い、ハンガリー王国摂政となったフニャディ・ヤーノシュの影響力増大、ヴラディスラフ2世の中立的支配の後の、ヴラド2世の次男ヴラド3世の興隆が目立った。ヴラド3世時代に、ブカレストはワラキア公の居住地として初めて歴史上に名を現した。ヴラド3世は反抗的なボイェリたちに恐怖政治を敷き、ボイェリとオスマン帝国との全てのつながりを断ち切った。彼は1462年、トゥルゴヴィシュテの夜襲(英語版)においてメフメト2世軍に打撃を与えたが、トゥルゴヴィシュテへ退却を強いられ、以前よりさらに多くの朝貢を飲まされた 。ヴラド3世時代には、イスラム教徒に改宗した実弟ラドゥ3世美男公やバサラブ3世ライオタとの対立が対トルコ戦と平行して続き、ハンガリー王マーチャーシュ1世軍のワラキア侵攻、モルダヴィア公シュテファン3世(シュテファン大公)のワラキア占領、ラドゥ3世によるワラキア征服とその死までの11年間の支配といった事態を招いた。1495年にワラキア公となったラドゥ4世(英語版)(ラドゥ大公)はボイェリらといくつかの妥協をし、彼はモルダヴィア公ボグダン3世との衝突があったものの、国内の安定した時代を守った。
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