ミッキー・マントルの衰え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:10 UTC 版)
「1964年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ミッキー・マントルの衰え」の解説
1951年に注目されながらヤンキースに入団し、早くからジョー・ディマジオの後継者と目されて1953年に超特大ホームラン(推定565フィート・約172m)を打ち、1956年に三冠王となり、1961年にはロジャー・マリスと熾烈な本塁打争いをしてベーブ・ルースの60本に迫ったミッキー・マントルだったが、デビューした年のワールドシリーズでウィリー・メイズの打球を追って転倒し右ヒザを痛めてから彼の野球人生は故障との闘いであった。次第に右ヒザが悪化してデビューした頃に誰もが驚いた彼の野球人としての天与の才能はなくなっていった。1964年のキャンプを訪れたかつてのチームメイトでヤンキース専属アナウンサーになったジェリー・コールマンはマントルを見て自分の目が信じられなかった。かつて脚が速く打ってから一塁まで3秒1のタイムで駆け込んだ俊足は最初の年に失われたが、10年が過ぎてあれほど優れた肉体が短期間に衰退していることに愕然とした。右ヒザの軟骨の摩耗が進み軟骨が無くて骨と骨が擦れ合う状態で、コールマンはマントルは最高レベルの非常に偉大な選手であるが身体は障害者に近いものになっていると考えていた。これは前年1963年に外野フェンスに激突して丈夫な方の左脚のヒザを痛めて、両ヒザが故障している状態であったことも起因していた。キャンプに入ってからしばらくして左ヒザが痛みベンチに下がった。もはや3年前に本塁打60本に迫った頃のマントルではなかった。その次の1962年には出場が123試合に減り本塁打30本でリーグMVPを得たが翌1963年はケガで欠場し65試合・本塁打15本に減り、この年は143試合・本塁打35本でいずれの年も打率は三割を維持して、さすがと思わせるものであったが、得点が2年前から100を割り、打点はこの年111で3年ぶりに100の大台に乗せたがその後再び100を超えることはなくなった。肉体の衰えとともに成績は低下し、彼を外野の守備から一塁にコンバートすべきという意見もチーム内にあった。しかし監督は一塁手は細かい動きで一瞬止まったりすぐに俊敏に動くためヒザに負担がかかるとして反対した。この年のワールドシリーズで本塁打3本を打ちシリーズ通算最高記録18本目の本塁打をカージナルスのエースボブ・ギブソンから打った瞬間がマントルの野球人生の最後の晴れ舞台となった。
※この「ミッキー・マントルの衰え」の解説は、「1964年のメジャーリーグベースボール」の解説の一部です。
「ミッキー・マントルの衰え」を含む「1964年のメジャーリーグベースボール」の記事については、「1964年のメジャーリーグベースボール」の概要を参照ください。
- ミッキーマントルの衰えのページへのリンク