マリア・レイノルズ事件とアーロン・バーとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 23:48 UTC 版)
「アレクサンダー・ハミルトン」の記事における「マリア・レイノルズ事件とアーロン・バーとの対立」の解説
ハミルトンは1794年にマリア・レイノルズ事件でその名声が傷つき、政治的ダメージを受けることとなる。マリアの夫ジェームズはハミルトンとマリアとの性的関係を認めていたにもかかわらず、ハミルトンを恐喝し金銭を要求した。ジェームズ・レイノルズは偽造の罪で逮捕されたとき、ジェームズ・モンローを始めとする数名のリパブリカン党員と連絡を取った。彼らはハミルトンの元を訪れマリアとの関係を問いただしたが、ハミルトンは関係を認めながらも無罪であることを強調した。モンローは事の詳細を公表しないことを約束したが、トーマス・ジェファーソンにはそのつもりがなかった。ハミルトンは情事の公表を強いられ、それは家族および支持者に衝撃を与えた。噂された不義によるモンローとの決闘は前上院議員のアーロン・バーによって避けられた。 皮肉にもバーは後のマリア・レイノルズの離婚訴訟において、いくつかの疑問を提示することでハミルトンを元気づけた。しかしながら、ハミルトンとバーのニューヨーク法曹界における関係は、憎悪であった。実際彼らの家族はしばしば関係することがあった。バーが1791年の上院議員選でハミルトンの義父フィリップ・スカイラーを破ったとき、ハミルトンはバーを陥れるための秘密工作を始めた。 ハミルトンの1795年の財務長官辞任は公の活動からの引退とはならなかった。弁護士業の再開でハミルトンは政界に対してアドバイザーおよび友人として関係を保っていた。ハミルトンはワシントンの退任演説に影響を及ぼしていたと考えられている。ハミルトンと、ワシントンの後任ジョン・アダムズとの関係は緊張していた。連邦党の大統領候補としてアダムズの指名を妨げようとするハミルトンの工作は党を分割し、1800年の大統領選でジェファーソン派のリパブリカン党員の勝利に寄与した。 ジェファーソンの大統領就任後、バーではなくハミルトンの起用を選択したことはバーに対するハミルトンの最初の打撃だった。バーは1804年にニューヨーク州知事選に連邦党から出馬しようとしたが、無所属候補として出馬した。ある新聞がチャールズ・D・クーパーのハミルトンによるものと思われる「卑劣な見解」を掲載した。政治的名誉回復の機会と考えたバーはハミルトンに対して謝罪を要求した。ハミルトンはバーが新聞の言及した事実を証明できなかったとして要求を拒絶した。 バーとハミルトンの決闘は、三年前にハミルトンの息子フィリップが父親の名誉を守るために決闘を行い敗れた場所と同じニュージャージー州ウィホーケンの岩棚の上で1804年7月11日に行われることとなった。ハミルトンは息子の死から決闘に反対したが、決闘は夜明けに始まりバーはハミルトンの下胸部を撃った。ハミルトンの銃弾はバーから外れたとも言われるし、銃が点火しなかったとも言われる。ハミルトンは翌日死去し、マンハッタンのトリニティ教会墓地に埋葬された。バーはハミルトンに対する殺人とその後の反逆裁判でニューヨークから逃亡し、1836年に死去した。
※この「マリア・レイノルズ事件とアーロン・バーとの対立」の解説は、「アレクサンダー・ハミルトン」の解説の一部です。
「マリア・レイノルズ事件とアーロン・バーとの対立」を含む「アレクサンダー・ハミルトン」の記事については、「アレクサンダー・ハミルトン」の概要を参照ください。
- マリア・レイノルズ事件とアーロン・バーとの対立のページへのリンク