ポルトガルの領土拡張への野心
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/14 07:08 UTC 版)
「ポルトガルによるバンダ・オリエンタル侵攻 (1811年-1812年)」の記事における「ポルトガルの領土拡張への野心」の解説
シスネロスの後任としてスペインから派遣されたフランシスコ・ハビエル・デ・エリオは1811年1月に到着した。エリオははじめブエノスアイレスで上陸しようとしたがフンタに阻止されたため代わりにバンダ・オリエンタルのモンテビデオ港で上陸した。ブエノスアイレスのフンタもエリオも自身が正当な政府であると主張、副王領の全領土を支配しようとした。ブエノスアイレスのフンタはマヌエル・ベルグラーノの軍勢を派遣してパラグアイへの遠征(英語版)を起こしたが失敗、ベルグラーノは王党派軍勢からの抵抗を受けると撤退した。その最中の2月13日にはエリオがブエノスアイレスのフンタに宣戦布告した。ホセ・ヘルバシオ・アルティーガス(英語版)率いるオリエンタレス(「東方人」)は直後にエリオに反乱、アセンシオの叫び(英語版)でブエノスアイレス政府支持を表明した。パラグアイから戻ってきたベルグラーノの軍勢はオリエンタレスの反乱に参加した。その結果、反乱軍の人数は3千人に上がり、指揮官をベルグラーノ、副指揮官をアルティーガスとした。 反乱軍はバンダ・オリエンタルの町の大半を占領、孤立したエリオはポルトガルに繰り返し助けを求めた。副王領の残りの地域はすでにポルトガルを支持しており、スペインのパラグアイ総督ベルナルド・デ・ベラスコ(英語版)はポルトガル軍の派遣を求め、マンディソビという小さな町(現アルゼンチン領フェデラシオン(英語版))も同様の要請をした。ベラスコはポルトガルのリオグランデ・ド・スル総督ディオゴ・デ・ソウザ(ポルトガル語版)准将(後のリオ・パルド伯爵)にブエノスアイレスへの連合攻撃(エリオも後に参加)を提案した。ベラスコは誠意を示すためにディオゴ・デ・ソウザをミシオネス総督に任命、一方行政自体はパラグアイからの代表であるフルヘンシオ・イェグロス(英語版)中佐が担当した。スペインのパラグアイ総督は同時にポルトガル軍にコリエンテスのインテンデンシア領であるコリエンテスとクルス・クアティア(英語版)の占領を求めた。 援助の要請にもかかわらず、ポルトガルは援軍を送らず、代わりにディオゴ・デ・ソウザ率いる軍勢をバンダ・オリエンタルの国境に終結させた。ポルトガルに助けを求めたスペイン人たちはディオゴ・デ・ソウザがすでに摂政王太子ジョアンの計画を受けてバンダ・オリエンタルの征服を準備していたことに気付かなかったのであった。ジョアンはサクラメントを含むバンダ・オリエンタル全体を奪回しようとした。彼の目標の達成は現実的であったが、バンダ・オリエンタルの住民がポルトガルの統治を歓迎する可能性が少なかった。ポルトガル人ははじめてラプラタ川を発見したヨーロッパ人であり、バンダ・オリエンタルにはじめて集落を建設したヨーロッパ人でもあったが、この時期にはほとんどの発展がスペイン人の手によるものとなっていた。スペイン人がウルグアイの形成期で果たした役割により、ウルグアイは現代ではイスパノアメリカの一部とみなされ、ポルトガルとブラジルの貢献はしばしば軽視されるか、無視された。
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