ホワイト・スター・ライン社長として
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「ジョセフ・ブルース・イズメイ」の記事における「ホワイト・スター・ライン社長として」の解説
1899年に父トマスが死去し、その跡を継いでホワイト・スター・ラインの社長となる。しかしこの前年の1898年にはアメリカのジョン・モルガンがインマン・ライン社(英語版)を買収。以降北大西洋航路事業への参入を図るモルガン財閥によって海運企業が次々と買収されていた。ホワイト・スター・ラインも対象とされており、父トマスはそれを防ごうと悪戦苦闘している中で亡くなった。 ブルースも当初はモルガンに対抗しようとしたが、ホワイト・スター・ラインの下請けの造船会社ハーランド・アンド・ウルフ社の会長ウィリアム・ピリー(英語版)(後の初代ピリー子爵)はモルガンとの価格競争になって造船予算が切り詰められることを嫌がり、モルガンの買収の申し出を受けるようブルースの説得にあたった。結局1902年にブルースはその案を呑み、ホワイト・スター・ラインはモルガンの国際海運商事(英語版)に買収される運びとなった。 一方ホワイト・スター・ラインのライバル企業キュナード・ライン社はモルガンのホワイト・スター・ライン買収を警戒した英国政府から様々な特権を引き出すことに成功し、イギリス企業にとどまることで今やアメリカのモルガン財閥の一部と化したホワイト・スター・ラインに対抗した。 キュナードは王立海軍の支援を受けて1906年に豪華客船ルシタニア号とモーレタニア号を進水させた。これに対抗すべく、イズメイはオリンピック号、タイタニック号、ジャイガンティック号(この船名は後に「ブリタニック」に変更される)の3隻の豪華客船の建造計画を立ち上げた。 1910年初めの会議の席上、ハーランド・アンド・ウルフ取締役アレグザンダー・カーライルが2886人分48艘の救命ボートの設置を提案したが、イズメイは経費が掛かりすぎるとして却下し、イギリス商務庁の規定する16艘で十分とした。(実際に設置された救命ボートの数は20艘)この時のことをカーライルは「我々は2時間を費やして一等船室のカーペットについて議論し、救命ボートについては15分しか話さなかった」と回顧している。 オリンピックとタイタニックの建造はハーランド・アンド・ウルフ取締役トマス・アンドリューズの監督のもとに行われた。アンドリューズももっと多くの救命ボートを備えることを進言したが、イズメイは却下した。 1911年5月31日に行われたタイタニックの進水式にはイズメイやモルガンも出席した。1912年4月10日をタイタニックの処女航海日と定め、その船長にはホワイト・スター・ラインの古参船長エドワード・スミスを据えた。スミスは1912年2月にオリンピック号の船長を務めていた時、王立海軍の巡洋艦と衝突事故を発生させているが、イズメイはオリンピック号の責任とする海軍の主張を言いがかりと跳ね除けてスミスをタイタニックの船長に任命した。
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