ホワイトソックス時代 (1993年–1997年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 03:33 UTC 版)
「ナッシュビル・サウンズ」の記事における「ホワイトソックス時代 (1993年–1997年)」の解説
1993年、ナッシュビルは再度提携先を代え、シカゴ・ホワイトソックスと提携してトップ・ファームとなった。また1993年のシーズンからグリア・スタジアムに特徴的なギター型のスコアボードを導入した。ホワイトソックスとの初年度、サウンズは81勝62敗でイースト・ディヴィジョンで優勝した。リーグ決勝戦では延長戦になり、アイオワ・カブスがサウンズに勝った。ナッシュビルのリック・レニックがアメリカン・アソシエーションの年間監督賞に選ばれた。 1993年から1994年のシーズン中、サウンズは本拠地のなかったシャーロット・ナイツとして知られていたダブルAサザンリーグのナッシュビル・エクスプレスに本拠地・ハーシェル・グリア・スタジアムを2年間提供した。シャーロットがトリプルAのフランチャイズとして契約することとなり、ダブルAの球団は本拠地を失ったのである。サウンズのオーナーのラリー・シュミトウは臨時の本拠地としてグリア・スタジアムの提供を申し出た。サウンズとエクスプレスの2球団が1つの球場を使用することとなったため、エクスプレスはサウンズが遠征中にホームゲームを行なった。『ベースボール・アメリカ』誌は、ナッシュビルが2球団の本拠地となったことを「マイナーリーグ野球の10大ハプニング」の第1位に選んだ。1995年、エクスプレスはノースカロライナ州ウィルミントンに本拠地を構え、ポートシティ・ルースターズと改名した。 1994年、サウンズは83勝61敗となった。またリーグ決勝戦に2年連続で出場した。1年目、ナッシュビルはニューオーリンズ・ゼファーズに3連勝し、リーグ決勝戦に出場した。5戦のシリーズでインディアナポリス・インディアンズが3勝し、ナッシュビルに勝った。1994年のシーズン半ばにナッシュビルはトリプルAオールスター・ゲームを主催した。サウンズの選手ではレイ・ダーラム、ドリュー・デンソン、スコット・ラフコーンが選ばれたが、ラフコーンが故障者リスト載ったため、スティーブ・シュレンクに交替した。ダーラムはStars of Stars を獲得し、アメリカン・アソシエーションのオールスター出場選手で最も価値のある選手であったことが証明された。 1995年、サウンズは68勝76敗で、優勝チームとは20試合差がついた。元々1994年にホワイトソックスのダブルAバーミングハム・バロンズに所属していたマイケル・ジョーダンは1995年のシーズンにフリーエージェントでサウンズと契約した。しかしMLBストライキが起こり、代替選手になったりスト破りのレッテルを貼られることを避けて野球選手をやめた。 1996年、前年より勝率を上げ、77勝67敗となった。そこそこ良い勝率にも関わらず、ナッシュビルはプレイオフの出場権を確保することができなかった。リック・レニック監督はリーグの年間監督賞を受賞し、ピッチャーのスコット・ラフコーンは13勝でリーグ首位となった。ラリー・シュミトウはこのシーズンを最後に主要株主でなくなった。シュミトウが野球では収益が上げられないと感じていた頃、ナッシュビルはNFLのフランチャイズとしてテネシー・タイタンズを迎える準備をしていた。1996年オフ、シュミトウはNFLのテネシー・タイタンズの買収に成功し、アメリスポーツのアラン・ゴードン社長にチーム全権を売却した。翌年、ナッシュビルは74勝68敗となり、シーズン優勝できなかっただけでなくポストシーズンからも外れた。シーズン中およびシーズン後のオールスター・チームに外野手マグリオ・オルドニェスが選ばれ、リーグの年間ルーキー賞およびMVPを受賞した。
※この「ホワイトソックス時代 (1993年–1997年)」の解説は、「ナッシュビル・サウンズ」の解説の一部です。
「ホワイトソックス時代 (1993年–1997年)」を含む「ナッシュビル・サウンズ」の記事については、「ナッシュビル・サウンズ」の概要を参照ください。
- ホワイトソックス時代のページへのリンク