ペンシルベニア州での初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 05:09 UTC 版)
「タデウス・スティーブンス」の記事における「ペンシルベニア州での初期」の解説
ペンシルベニア州ではヨーク・アカデミーで教壇に立ちながら弁護士になるための勉強を続けた。地元の弁護士達は、2年間専従で法律を学んでいない者をその弁護士会員にしないという決め事を作っていたが、その決まりはスティーブンスを対象にしているように見えた。スティーブンスはこれを解決する方法を近くのメリーランド州ハーフォード郡で見つけた。弁護士試験委員会に現れたスティーブンスは4本のマデイラ・ワインを持っていた。スティーブンスがその後繰り返し語った話では、幾つかの質問が出たが、ワインを飲む方が多く、翌朝そのベルエアーの町を出たときは、弁護士免許を持っており、州間の互恵規定によりどこでも法律実務を行えるようになっていた。スティーブンスはアダムズ郡の郡庁所在地であるゲティスバーグに移転して、1816年9月には法律事務所を開いた。 ゲティスバーグには知り合いがいなかったので、当初は弁護士としてあまり成果が出なかった。その転機は1817年半ばに訪れた。借金のために監獄に入れられた農夫が、逮捕した警官の1人を殺害した事件だった。その弁護にあたったスティーブンスは裁判には勝てなかったが、地元民に印象を与え、その後は仕事に困ることがなくなった。法曹界におけるその経歴では、その後の政治家として特徴づけられることになった皮肉屋の性癖を表し、ある時は判事に向かって「判事殿、私はそれを隠すために最善を尽くしている」と言って、法廷侮辱罪に問われた。 スティーブンスが1868年に亡くなった後、彼を覚えている多くの者がその弁護士としての才能を認めていた。法律実務を始めてから、アダムズ郡からペンシルベニア州最高裁判所まで持ち込んだ最初の事件10件のうち、9件まで勝訴した。1つだけ勝たなければ良かったと思った事件があった。それは「バトラー対デラプレイン事件」であり、ある女性奴隷についてその所有者の返還請求を認めさせたことだった。 ゲティスバーグに居る間に政治への関与も始めており、1822年から1831年まで1年任期であるボロ委員会の委員を6期務め、その議長にもなった。法律実務で得た利益をゲティスバーグの不動産に投資し、1825年までに地域では大土地所有者になっていた。町の外にある製鉄所の幾つかにも投資していた。資産が増えたが、敵もできていた。ゲティスバーグである黒人妊婦が死亡した後、匿名でスティーブンスに責任があるという投書が新聞に寄せられた。この噂はその後の数年間彼について回った。1831年にスティーブンスに敵対するある新聞がスティーブンスを殺人者だと呼ばわる記事を掲載したとき、名誉毀損訴訟を起こして勝訴した。
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