ヘッセン=ダルムシュタット方伯の創設(1567年 - 1596年)
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「ダルムシュタットの歴史」の記事における「ヘッセン=ダルムシュタット方伯の創設(1567年 - 1596年)」の解説
1567年にフィリップ寛容伯が亡くなるとヘッセンは4人の息子に分割された。4男のゲオルク1世はヘッセン家の傍流となるヘッセン=ダルムシュタット家を創設し、それまで前哨基地に過ぎなかったダルムシュタットを堂々たる宮廷都市にしていった。 最初は兄のヘッセン=マールブルク方伯ルートヴィヒ4世の後見下で城館の再建や新しい市庁舎の建設、手工業法や営業法の公布を行った。その後ゲオルク1世自身は財政を強化し、新しい統治法を定め、司法改革とその中央集権化を行い、精力的に都市の再建を行った。そして1590年からマグダレーネ通りの旧フォアシュタットを建設、城館のさらなる増築も行った。フィリップのヘッセン領であった他地域からのヘッセン=ダルムシュタット方伯の主権分離を規定したラント法に関する兄弟との長く、結局は不調に終わった交渉の後、ゲオルク1世は1591年についにこれを確定した。これによりダルムシュタットはゲオルク家の主権地域の永続的な首都となり、やがてはかつてのヘッセン方伯領の大部分を包含する形で再統一されたヘッセン大公国の首都となるのである。 外交面ではダルムシュタットの利点を活用し、ゲオルク1世の治世の間戦争に巻き込まれることはなかった。これにより内政面では、経済、豊かさ、市の人口は急速に増加していった。彼は、堅信礼を経た子供に教育を与え、事実上就学の義務を規定した。またゲオルク1世は、1592年に市立の救貧院、1594年から城内で孤児に教育を施したことで社会福祉の基礎造りの契機を与えた。 遅くとも1582年以降、この都市は魔女狩り熱の虜となり、約40人の女性とヴァオルフ・ヴェーバーという名の若者が魔女(あるいは悪魔)として有罪判決を受けて処刑された。その同じ頃にはペストの流行が繰り返し起こり、1585年の1年だけで市民の10%以上が亡くなった。しかし、魔女狩り熱やペストの流行があったにもかかわらず、ゲオルク1世の治世にダルムシュタットの人口は増加した。
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