ヘッセン=カッセル方伯家の御用商人
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「マイアー・アムシェル・ロートシルト」の記事における「ヘッセン=カッセル方伯家の御用商人」の解説
ヴィルヘルムは領内の若い男子を徴兵して練兵場で鍛え上げ、イギリスに貸しだすという傭兵業を営んでおり、そこから莫大な利益を上げていた。ハーナウ宮殿の財務官カール・ビュデルス(ドイツ語版)から気に入られていたマイアーは、小規模ながら両替商もやっていたため、ロンドンから振り出されたヴィルヘルムの為替手形を割引(現金化)する仕事に携わらせてもらえるようになった。 1770年、同じフランクフルト・ゲットーの住民でザクセン=マイニンゲン公宮廷御用商人をしていたザロモン・シュナッパー(Salomon Schnapper)の娘グトレ(ドイツ語版)と結婚し、彼女との間に息子5人、娘5人の計10子を儲けた。 1780年代半ばにはフランクフルト・ゲットーの住居の中で最も高級住宅である「緑の表札(グリューネシルト)(ドイツ語版)」の付いた家に引っ越した(それでもキリスト教徒の住居と比べると貧相だったが)。 1785年に主君ヴィルヘルムがヘッセン=カッセル方伯位を継承してヴィルヘルム9世となり、フランクフルトから離れたカッセルのヴィルヘルムスヘーエ城(ドイツ語版)に移った。これによりヴィルヘルム9世との関係が一時途絶えそうになった。1780年代末までヴィルヘルム9世にとってマイアーは数多くいる御用商人の一人でしかなかったため、宮廷に顔を見せる機会が減るだけで、すぐに疎遠になるのである。 しかしやがてマイアーの息子たちが父の仕事を手伝うようになった。精力的なマイアーの息子たちは方伯からも気に入られた。特に次男ザロモンはほぼ毎日のようにヴィルヘルムスヘーエ城に詰めていた。長男アムシェルも方伯の抵当権に関する仕事に携わらせてもらうようになった。彼らの活動が評価されて、1789年にはロートシルト銀行は大銀行と名前を並べる形でヘッセン=カッセル方伯家の正式な金融機関の一つに指名され、方伯家の貸出業務に関与できるようになった。また三男ネイサンはフランス革命の影響で大陸で暴騰していた綿を大量に買いつけるため、1798年にイギリス・マンチェスターへと渡っていった。 息子たちの努力によってロートシルト家の業績は1790年代から急速に伸び、1796年にはマイアーはゲットーで一番の資産家となっていた。取引範囲も広がっていき、ドイツ各都市やアムステルダム、ウィーン、パリ、ロンドンなど外国都市でも活動するようになった。この頃からロートシルト家の業務は信用供与と貸付業務が主となり、商人から銀行家へと転身したといえる。 マイアーはヘッセン=カッセル方伯家の御用商人として長年やってこれただけあって、穏和な性格で人の心を掴むことが得意だったという。またマイアーの商売は正直であり、取引相手も必ず儲けることができた。これがロートシルト家の高い信用につながった。
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