ブレッチリー・パークと政府通信本部
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「コーネル・ヒュー・オドネル・アレグザンダー」の記事における「ブレッチリー・パークと政府通信本部」の解説
1940年2月にアレグザンダーは第二次世界大戦中のイギリスの暗号解読の中心地であるブレッチリー・パークに赴任した。彼はドイツの陸軍および空軍の用いるエニグマの通信を解読する部門であるHut 6(英語版)に入った。1941年にHut 8(英語版)に移籍し、海軍のエニグマの解読に従事した。彼はアラン・チューリングのもとでHut 8の副主任となった。アレグザンダーはチューリングよりもhutの日々の作業により関わっており、チューリングがアメリカを訪問している間の1942年11月ころにHut 8の主任となった。ほかの同僚にはスチュアート・ミルナー・バリー(英語版)、ゴードン・ウェルチマン(英語版)、ハリー・ゴロンベック(英語版)がいる。1944年10月には日本のJN-25(英語版)暗号の仕事に移籍した。 1946年中頃、アレグザンダーは(外務・英連邦省下の)政府通信本部に入った。ここは戦後になってブレッチリー・パークの政府暗号学校の後を継いだ組織である。1949年までに彼は「セクションH」(暗号解読)の主任に昇格し、1971年に引退するまでその職にいた。 MI5のピーター・ライト(英語版)が1987年のベストセラー『スパイキャッチャー』(Spycatcher: The candid Autobiography of a Senior Intelligence Officer)で書いたところによると、アレグザンダーはMI5が遂行中のベノナ計画など2つの組織のあいだの重要な協調作業に力を貸し、そのために両組織の間にあった障壁がなくなったという。アレグザンダーは「この部局ではどんな助けも大歓迎だ」とライトに語り、以降そのとおりになった。ライトはアレグザンダーのプロフェッショナリズムも賞賛しており、また、暗号解読という仕事とチェスという趣味に必要な極度の頭脳への負荷が、健康的なライフスタイルにもかかわらず64歳で早死にした原因ではないかとも述べている。
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