フレンド会の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 17:23 UTC 版)
「ジョージ・フォックス」の記事における「フレンド会の形成」の解説
1648年、フォックスは布教活動を正式に始めた。市場や野原、様々な会合、時には牧師が礼拝を終えた「尖り屋根の家」でさえも説教を行おうとした。フォックスの説教は力強く、多くの人がフォックスの信仰を「真の宗教」の精神性の中で分かち合っているのだと確信していた。静かに待つという形式で行われるフレンド会の礼拝は、この時点までに十分に確立されていたと思われる。ただし、この形式がどのように作られていったかは記録がない。また、フレンド会がどの時点で成立したのかでさえ、明らかではない。だが、しばしば旅を共にした一群の人々がいたことは確かである。ただ単に「フレンド」というだけでなく、「光の子」という言葉も同時期に使われた。しかしながら、フォックスには、教団を設立しようという考えはなかったようで、ただ単に純粋で本物の、本来の素朴なキリスト教の原理として見たことを主張したかっただけであると思われるものの、後に結成した組織で宗教上の立役者として大いに手腕を発揮した フォックスの説教は著作から広まったが、主にそれは自身が計画した強烈な個人的体験の結果であった。フォックスは当時の道徳を痛烈に批判し、(神を)信じる者は救われるとするランター派の批判は避けたが、聴衆に穢れなき生活に導こうとした。この時、様々な見解が各宗派にあり、そうした対立と混迷により各派代表により何度も開かれた会議でフォックスは自身の意見を述べようとすることになる。1651年までに多くの有能な説教師を集め、改宗を呼び掛けて各地を放浪し続けた。フォックスらは殴打などの激しい妨害受けながらも放浪を続けた。 窃盗罪で処刑されることになっている女性の事件に対する、同義的に悪と考えたことに対する判事への告訴状に見られるように、社会的正義への関心は徐々に深まっていった。チャールズ1世の抑圧による内戦とイングランド共和国開始による混乱で、権力抗争はイングランド民衆にとって身近な問題になっていた。フォックスと共和国の争いは避けられないものになった。 1652年、フォックスは神がペンデルヒル(ランカシャー)に向かうよう導いていると感じた。キリストに集う数多の例が見えた。そこから神を求める人々が集まっているというウェストモーランドのセドバーグに旅をした。近くのファーバンクフェルでキリストは直接人々に語ることができるというフォックスの教えを受け入れたフランシス・ホグウィルら多くの人々に説教した。
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