フランス国外におけるドゥニエ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 20:39 UTC 版)
「ドゥニエ」の記事における「フランス国外におけるドゥニエ」の解説
十字軍国家や植民地などの一部、フランスが影響力を持った地域において、ドゥニエが発行されるケースがあった。以下に例示する。 イベリア半島 10世紀ごろにサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を通る巡礼者やレコンキスタ参加者によって移入され使用された。11世紀、各国で独自の通貨が発行されるようになるが、旧バルセロナ伯の領地ではドゥニエが発行された。12世紀ごろのカスティーリャ=レオン王国の銀貨のデザインにも影響を与えた。 トリポリ伯国 1109年からドゥニエを発行していたが、銀貨というよりビロン貨であった。 アンティオキア公国 1136年ごろから1268年にイスラム勢力に占領されるまで、独自にビロン貨のドゥニエを発行していた。 エルサレム王国 建国当初は現地で通用していた貨幣、ファーティマ朝のディナール金貨やビザンツ帝国のフォリス銅貨とともに、十字軍に参戦した各国兵士が西欧から持ってきた貨幣が混在して流通していた。アモーリー1世(在位:1163年–1174年)がエルサレム王国独自の貨幣を初めて発行した際、単位をフランスをまねてドゥニエとした。貨幣中央の図柄は聖墳墓教会が用いられた。 エルサレム王国が弱体化すると諸侯や騎士団ですらも貨幣を作り始め、20ほどの勢力が独自にドゥニエを発行する状態となったが、これらはすべてビロン貨であった。 キプロス王国 ごく初期にはビロン貨のドゥニエが発行されたが、ユーグ1世 (キプロス王)(英語版)(在位:1205年–1218年)以降はベザントに取って代わられた。 アカイア公国 1245年からビロン貨のドゥニエが発行され、14世紀中ごろまで鋳造された。公の名前が刻印されているものの、頭文字だけなので誰が誰だか同定が難しいケースがある。 アテネ公国 アカイア公国によって臣従してより、いつごろ開始したかは定かではないが、14世紀初頭までドゥニエが鋳造されていた。 スイス 1848年に通貨を統一するまで、各地方で周辺地域に影響されながら独自に貨幣を鋳造していたが、その中にドゥニエもあった。ジュネーヴのドゥニエはフローリンを頂点とし、1フローリン=12ソル、1ソル=12ドゥニエという完全12進法の体系であった。 北部アメリカ 1721年、ドゥニエ銅貨が鋳造され発行された。ウィリアム王戦争、アン女王戦争の戦費調達のために乱発した紙幣を回収するためであったが、1729年に40万、1750年に100万リーブルの植民地不換紙幣が発行されて後、見られなくなった。
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