フォード買収画策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 17:02 UTC 版)
「ウィリアム・C・デュラント」の記事における「フォード買収画策」の解説
1909年にフォード・モーター・カンパニーを950万で買収する寸前までいった。ヘンリー・フォード、およびフォードのブレーンだったカナダ出身のコウゼンズ(のちデトロイト市長、上院議員)とニューヨークのベルモントホテルで会った。ヘンリー・フォードは腰痛のため話はコウゼンズとおこなわれた。48時間以内という条件で現金950万ドルを用意しフォード社を売却するという内容で合意した。 この売却タイミングは、フォードがALAMと訴訟で争っていたセルデン特許問題が一旦結審し、ALAM側が勝訴していたという事情もあった。T型フォードは前年の1908年10月に発売され1万台を売り上げていたが、この時点ではまだT型のみへの集中ではなく、他のモデルも製作していた。この時点のフォードはまだそれほど高くは評価されていなかった。その当時の米国市民が世界に誇った自動車は、1908年におこなわれた世界初の世界周遊レースニューヨーク=パリ間レースで健闘したトーマス・フライヤー(Thomas Flyer)だった。日本も通過したこのレースでは、ドイツが最初にゴールしたが、コースを正しくたどらなかったために、判定後、アメリカ優勝となった。 1909年10月26日にデュラントはGM役員を招集した。この買収には48時間の猶予が与えられた。ところが、最終的に銀行が話から手を引き、デュラントはフォードの要求する金額を用意することが出来なかった。ヘンリー・フォードはフォード社で事業をつづけた。 当時の自動車会社で今日まで名前が残る会社の多くはメカニックやクラフトマン(現代のエンジニア)と呼ばれる人が創業していたがデュラントのGMは異なった。技術者でないデュラントはヘンリー・フォードの技術者としての能力と自動車産業に対する考え方を高く評価し、フォード社購入だけでなくヘンリー・フォード自身がデュラントの元で働くことを希望した。ヘンリー・フォード自身は会社を売ってまた一からはじめればいいと考えていた。ここでこの目的を達成できなかったデュラントは、この数年後にシボレー社でヘンリー・フォードに挑んだ。 この話は1927年1月に、GMの広報担当だったマクマナス(Theodore F. McManus)の著"The Sword Arm of Business"で800万ドルの取引として初めて明らかにされた。現金200万ドルを頭金とした現金800万ドルという条件。しかしGMの公式資料ではこの額を950万ドルとしている。
※この「フォード買収画策」の解説は、「ウィリアム・C・デュラント」の解説の一部です。
「フォード買収画策」を含む「ウィリアム・C・デュラント」の記事については、「ウィリアム・C・デュラント」の概要を参照ください。
- フォード買収画策のページへのリンク