ピガフェッタの記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 10:03 UTC 版)
マゼランの航海では、マゼラン自身は旅の途中で死に、出発時約270人いた乗組員たちの中で世界一周を達成して生還できたのはわずか18人であり、その18人の生き残りの中でもっとも著名で詳細な報告を行った者がピガフェッタである。歴史上初めての世界一周は当時も当然注目の的でありピガフェッタは教皇クレメンス7世に面会しマントヴァ宮廷にも招かれ人類初の世界周航の話をしている。ピガフェッタがロードス騎士団長(後のマルタ騎士団)にあてた書簡による記録はもっとも詳細な報告であり、ヨーロッパの各地でこれが改竄を受けながら出版されていた。このピガフェッタの記録には出合った巨人のこととマゼランが彼らにパタゴンと名付けたことが記載されていて、ヨーロッパにパタゴンあるいはパタゴニアの巨人伝説が起こり、また南米南端の地にパタゴニアの地名が付くきっかけとなった。 ピガフェッタの記録によれば、航海の途中、彼らは南緯49°の地で冬を迎えしばらく停泊することになった。彼らが停泊した地はパタゴニアでも中部よりやや南の今で言うサン・フリアン湾(英語版)であった。結局はそこに5か月滞在することになるのだが、そこで出会いマゼランがパタゴンと名付けた先住民をピガフェッタは常に「巨人」(ごく一部で大男)と書いている。ピガフェッタの記録にも矛盾しているところがあり、最初の出会いも書きはじめでは裸の巨人と書いているが、同じ文章のなかでは巨人は毛皮を着ていたとも書いている。矛盾した記述もあるが、ピガフェッタは出合った巨人について、マゼランたちの背が巨人の腰までしか届かなかったこと、巨人は顔を赤く塗り、目の回りは黄色、そして頬にハート型の模様を描いていたとしている。そして、巨人は鏡を見せられ鏡に映った自分の姿に驚いたことや、器用に縫い合わせた毛皮を着、毛皮の履物を履いていたことも書いている。 停泊中にマゼランたちはパタゴンたちとたびたび接触していて、ピガフェッタはパタゴンが家屋は作らず、毛皮を着、毛皮の履物を履き、毛皮と木の棒で作ったテントで暮らし一箇所に定住するものではないことや、生肉を食べる習慣、弓矢をよく使うこと、踊り歌うことが好きでよく踊り、踊るたびに25cmもの深さの足跡が付いていたことなどを書いている。 マゼランはパタゴンを何人か捕まえスペインに連れ帰ろうと艦に拘束している(この捕まったパタゴンはいずれも後の航海の途中で死んでいる)。パタゴンを巨人と呼んでいたピガフェッタは艦内で巨人に密に接していたようで、巨人の言葉を90ほど書き残し、巨人もキリスト教への改宗を考えるほどの関係になっていた。ただし、親しくなった後にもピガフェッタによるパタゴンの呼び名は「巨人」のままである。ピガフェッタの乗艦に捕らわれていたパタゴンはその後の太平洋での過酷な航海途中に他の多くの乗組員たちと共に(おそらくは壊血病と飢えで)死んでいる。
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