ビルバオ陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:26 UTC 版)
イギリス、フランス、ベルギー、デンマーク、スイス、スウェーデンなどではゲルニカ爆撃以前からスペイン共和国支援組織が成立しており、ゲルニカ爆撃直後の1937年5月や6月には、ビスカヤ県の多くの子どもたちがビルバオ河口のサントゥルセ港などからフランスなどに集団疎開した。ほとんどの疎開者はまずフランスに送られ、その後に各国に送られた。グレゴリオ・アリエンによれば、一時滞在者を含む国別の疎開者は、フランスが22,238人、イギリスが3,956人、ベルギーが3,201人、ソビエト連邦が2,500人-5,000人などだった。疎開児童の中には後に作家となるルイス・デ・カストレサナなどもおり、カストレサナは爆撃から30年後の1967年、スペイン内戦中の疎開を主題とした物語『もう一つのゲルニカの木』を著している。この物語はスペイン内戦を敗者の側から書いてスペインで出版された初の書籍であり、スペイン国民文学賞を受賞した。 6月11日にはフランコ軍が鉄の帯(英語版)の一部を突破し、バスク自治政府の首都であるビルバオに迫ったため、バスク自治政府は降伏の準備を進めた。6月17日にはビルバオ市民がサンタンデール方面に逃れ、6月19日にはすべてのバスク軍兵士もビルバオから引き揚げた。同日17時以降にフランコ軍が入城し、ビルバオは無傷で反乱軍の手に渡った。スティアの記事の世界的な反響により、反乱軍はゲルニカ爆撃以後はテロ爆撃に制限を設けざるを得ず、ビルバオに対する徹底的な無差別爆撃は行われなかった。6月27日にはビスカヤ県とギプスコア県の地方自治特権が全廃され、バスク自治政府は支配領域をすべて失って亡命政府となった。8月23日にはバスク軍とイタリア軍との間でサントーニャ協定(英語版)が結ばれ、バスク軍は武器の放棄などを、イタリア軍はバスク軍兵士の生命の保証などを約束したが、イタリア軍は協定を守らずにバスク軍をフランコ軍に引き渡した。
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