ビルバオへの併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/20 16:52 UTC 版)
19世紀のビルバオは過密状態で成長の余地がなく、1870年にはネルビオン川対岸のアバンドがビルバオに併合された。この併合は民族主義思想を持っていたサビノ・アラナに影響を与え、バスク民族主義の萌芽の原動力のひとつとなった。1876年には建築家のセベリノ・アチュカロ、エンジニアのパブロ・アルソラ(ビルバオ市長)、エルネスト・ホフマイヤーなどによる都市の拡大計画が承認された。狭い路地が迷路のように張り巡らされたビルバオの旧市街(カスコ・ビエホ)とは対照的に、アバンド地区はグラン・ビア・デ・ドン・ディエゴ・ロペス・デ・アロ通りを軸とした緩やかな格子状の道路割で、アバンド地区が拡大ビルバオの中心地となった。20世紀前半にはさらに多くの自治体がビルバオと合併しているが、そのうちの多くは1983年に再び分離して独立した自治体となっている。1990年代に産業の空洞化が進むと、アバンド地区の北側で再開発が行われ、かつて造船所や木造倉庫があった土地がアバンドイバラ(アバンドの河岸)という新しい区域となった。ビルバオ河口の河岸にある工業地区だったアバンドイバラには、ビルバオ・グッゲンハイム美術館、エウスカルドゥナ国際会議場・コンサートホールなど多くの文化施設が建設され、イソザキ・アテアのような居住用ビルも多く建設された。今日のアバンドイバラはビルバオ屈指の観光地となっている。
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