ヒ素系色素の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 09:25 UTC 版)
「魔法の弾丸 (医学)」の記事における「ヒ素系色素の研究」の解説
エールリヒは、1899年にドイツのフランクフルト・アム・マインにある実験治療研究所(Institut für experimentelle Therapie)に加わり、1906年にその研究所であるGeorg-Speyer Hausの所長になった。ここでの彼の研究は、微生物を殺すためのヒ素系染料のテストに焦点を当てた。ヒ素は悪名高い毒物であり、彼の試みは批判に遭った。彼は架空の「パンタソス博士」として世間から非難された。しかし、エールリヒの理論的根拠は、側鎖と呼ばれる化学構造が毒素(病原体やその生成物など)に結合する抗体を形成するというものであった。同様に、ヒ素化合物などの化学染料もそのような側鎖を生成し、同じ微生物を殺すことができる。このことから、彼は「側鎖説」と呼ばれる新しい概念を提唱した。(後の1900年、彼はこの概念を「受容体理論」として修正した)。彼はこの新しい理論に基づいて、微生物を殺すためには「Wir müssen chemisch zielen lernen」(「私たちは化学的に狙いを定める方法を学ばなければならない」)と提唱した。彼の研究所は、染料工場に隣接していて便利だった。彼は、さまざまな微生物に対して多くの化合物のテストを始めた。彼は、研究をする中で「化学療法」や「魔法の弾丸」という用語を作った。彼は以前の著作でドイツ語のzauberkugelという用語を使っていたが、英語のmagic bulletという用語を初めて導入したのは、1908年にロンドンで開催されたハーベン講演会であった。1901年までに、日本の微生物学者である志賀潔の協力を得て、エールリヒは、睡眠病の原因となる原生動物トリパノソーマに感染したマウスを使って、数百種類の色素を使った実験を行った。1904年、彼らは睡眠病の治療のために、トリパンレッドと呼ばれる赤いヒ素染料の調整に成功した。
※この「ヒ素系色素の研究」の解説は、「魔法の弾丸 (医学)」の解説の一部です。
「ヒ素系色素の研究」を含む「魔法の弾丸 (医学)」の記事については、「魔法の弾丸 (医学)」の概要を参照ください。
- ヒ素系色素の研究のページへのリンク