ハーレー政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:29 UTC 版)
「ロバート・ハーレー (初代オックスフォード=モーティマー伯)」の記事における「ハーレー政権」の解説
ハーレーは主要な敵国であるフランスとの和睦を考え1710年からフランスの外相トルシー侯ジャン=バティスト・コルベールに元駐仏大使の初代ジャージー伯爵エドワード・ヴィリアーズを通して秘密交渉を行い、1711年になって同盟国オランダに和睦を明かしたが、以後オランダにも内密でフランスとの交渉を進めていった。1711年にジャージーが急死してからはシンジョンを加えて交渉を進め、一方でスウィフトを通して交渉の正当性を世論に訴え、逆に同盟国を戦争を長引かせていると非難した。 更にマールバラ公を司令官から罷免して第2代オーモンド公爵ジェームズ・バトラーを後任に据え、ホイッグ党員が多い上院に対してはアンに働きかけて与党派の12人を貴族に叙爵、上院も押さえて和平に動いた。しかしながら1712年に他の同盟国も含めた予備交渉の段階になって内容が明らかになると、同盟国からの反発により再びフランスとの秘密交渉に取り組み、オーモンドにはフランス軍と交戦しないよう命令し、トルシーとシンジョンが休戦を結ぶとイギリス軍を引き上げさせた。同盟国の非難をよそにフランスとの和睦交渉を続け、1713年にユトレヒト条約を締結、海外植民地を増加させイギリスの利益増となった終戦によりトーリー党及びハーレーは絶頂期を迎えた。 しかし、トーリー党は王位継承問題を巡って揺らいでいて、アン亡き後に又従兄に当たるドイツのハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが後継者に選ばれていたが、アンの異母弟でカトリック教徒のジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを支持するジャコバイトも含まれていて、ハーレーはハノーファー派だったが、ハーレーと主導権を巡って対立していたシンジョンはジャコバイトに肩入れしたため党内一致に失敗した。しかも、大陸でマールバラ公と共にフランスと戦っていたゲオルク・ルートヴィヒはハノーファーを含む同盟国を見捨てた単独講和に不満を抱いていたため、トーリー党がアン亡き後に政権を継続出来る見通しが無くなっていた。おまけに、ハーレーは1713年から飲酒でしばしば体調不良になり、シンジョンに主導権を奪われ指導力の低下からアンにも見限られつつあった。1714年7月27日にハーレーは第一大蔵卿を罷免された。後任は中立派の初代シュルーズベリー公爵チャールズ・タルボットで、シンジョンは公金横領の疑いで選ばれなかったためトーリー党の衰退は明らかになっていった。
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