ハワイでの14年間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/12 09:40 UTC 版)
「シャルル・ド・ヴァリニ」の記事における「ハワイでの14年間」の解説
ヴァリニは快活な性格であり、通訳見習いの間に、外務大臣(英語版)ロバート・クライトン・ワイリー(英語版)と仲良くなった。ワイリーはスコットランド出身の大英帝国人であったが、南アメリカと太平洋地域を旅して回ってきたため、複数の言語に堪能であった。また、当時はクリミア戦争中のためフランスとイギリスは同盟国であった。ワイリーは親子ほど年が離れたヴァリニを気に入り、まだ年若い君主アレグザンダー・リホリホ(カメハメハ4世)や、王室の取り巻き連中にヴァリニを紹介した。後年、ヴァリニがワイリーの外務大臣職を引き継いだのもワイリーの影響力による。 1857年にヴァリニは、ドイツ人のヘルマン・フォン・ホルトと共にハワイ島に旅行し、キーラウエア火山に登ったり、ハワイ島で牧場を経営しているジョン・パルマー・パーカー (牧場経営者)(英語版)を訪問したりした。ヴァリニらはハワイ島でジャック・パーディ("Jack" Purdy)というガイドを雇った。ジャックは何年か前にハワイ島を訪れたジュリアス・ブレンチリー(英語版)という冒険家の話をしたり、太平洋地域最高峰のマウナ・ケア山登頂のガイドを務めたりした。 1862年にプルランが亡くなると、ヴァリニはフランス領事に就任した。1863年7月にはカウアイ島へ行き、ワイリーが経営するハワイ州プリンスヴィル(英語版)のサトウキビ農場を訪問した。 1863年12月7日、ヴァリニはハワイ王国のカメハメハ5世王の枢密顧問(Privy Council)に任命され、同月14日、財務大臣(英語版)に就任した。しかし、カメハメハ5世は憲法(1852年憲法)への宣誓を拒否し、政治危機を引き起こす。ハワイ王は憲法議会の招集を提案するも合意に至らず、独自の憲法案を1864年に制定した。ヴァリニは新憲法の制定に全般的に協力した。新憲法は国王と内閣閣僚に強い権限を与え、参政権に財産的条件をつけるものであった:132。 1864年から1868年まで、ヴァリニはハワイ王国の立法機関(英語版)である貴族院(House of Nobles)で法の制定に関わり、1865年1月21日には移民局(Bureau of Immigration)と公報局(Bureau of Public Instruction)の局長に任命された。 ワイリーが1865年10月に亡くなり、ヴァリニは1865年12月21日に外務大臣(英語版)に任命された。ヴァリニは、ジョン・ボウリングが強力に進めていたフランス、イギリス、アメリカの三国共同交渉の中止を最優先の仕事として取り組んだ。ヴァリニは三国それぞれに最恵国待遇を認める基本条約よりも、各国と相互主義(互恵主義)に基づく条約を結ぶ二国間交渉を選んだ:209。
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