ハツジサワと死別。坂井ツルの弟子となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 06:17 UTC 版)
「小林ハル」の記事における「ハツジサワと死別。坂井ツルの弟子となる」の解説
1921年(大正10年)、ハツジサワが病死。ハルにはサワの死が母親が死んだ時よりも辛く感じられ、食事も喉を通らなくなるほど落ち込んだ。長岡の瞽女組織では師匠が死ぬと姉弟子の弟子になる慣習があったがサワには他に弟子がおらず、サワの師匠は高齢であったため、話し合いの末長岡の組織を出ることにした。ハルは妹弟子を自分の弟子にし、自らはかねてから面識のあった坂井ツルの弟子となった。前述のようにハルは修業時代、「自分が弟子を持つようになったときには、弟子には優しくしてやろう」と思うようになったと語っており、かつて樋口フジに面と向かって「おらが親方になったら、弟子には好きなものを食べさせるし、風呂もいつでも入らせる」と言って激怒させ、折檻を受けたことがあった。ハルはこの時の言葉通りに弟子に優しく接した。ツルへの弟子入りを機にハルは実家を離れ、ツルと一緒に小須戸町に家を借り、共同生活を送るようになった。ツルはハルに、三味線をそれまでの紙張りから皮張りに、撥を木製から鼈甲製のものに替えるよう勧めた。これはツルがハルを一人前の瞽女として認めたことを意味していた。やがてツルが巡業へ出なくなると、ハルが巡業を率いるようになった。 ハルは20代半ばにヨシミという名の2歳の女児を引き取り、坂井ツルと共に育てたことがある。ヨシミは生後3か月ほどで実母を亡くし、養女として引き取られた先に子供ができ、「いらない子」とされた子供であった。ハルは将来ヨシミを養女にするつもりで可愛がり、巡業にも連れて行ったが、4歳の時に肺炎で亡くした。この時のハルの悲しみは深く、唄う気力さえなくすほどで、巡業先で子供の声がするだけでヨシミのことを思い出して涙にくれたという。後にハルは桐生清次に対し、次のように語っている。 私の体さえ満足なら、ヨシミだって生まれ変わってくるかもしれない。相手を見つけて、一人くらい自分の子どもがほしかった。そんなことを今まで思ってもみなかったが、ヨシミが死んだ時だけはそう思い思いました。 — 桐生2000、267頁。 その後も子供を引き取って欲しいという話が出ることがあったが、ハルは「私は本当に運がないからまた死なせると悪い」と思い、応じなかった。
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