ネスレ事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/16 09:34 UTC 版)
ここで言う「ネスレ事件」とは、1931年(昭和6年)、ネスレの北海道進出への反対者たちが、暴力的行為によってそれを阻んだ事件である。 この時期、北海道の酪農は窮迫しており、乳価は下落する一方で、道庁の犠牲的助成により何とか維持されていた。そこに、当時世界市場に資本主義的に君臨していたネスレが、北海道市場の席捲を目論んだ。進出が実現すれば、乳価の上げ下げを自由にされ、共栄の保証が得られないのみならず、日本の国内産業が食い尽くされる恐れが多分にあった。しかし、酪連にはネスレ会社との提携を防ぐ術がなかった。 有吉忠一貴族院議員がネスレ本道進出に対する橋渡し東導役として外国人技師2名を引具し札幌を訪れ、道庁当局と懇談し、更に新聞記者団とも会談した。記者団はネスレ進出に反対していたので、有吉会見は一種の討論会と化した。 理論でその功を奏する方法を発見できなかった反対派は、暴力的行為により外資侵入を防ぐという結論に到達。時の政友幹事長だった林に相談した。林はこれに賛成。かつ実行に尽力する。 有吉と外国人技師が札幌駅頭に立つや、有吉は反対派の男に売国奴として殴られた。傍らにいた2名の外国人は、ただこれを見ていただけで腰を抜かして驚き、うろたえた。そして、ネスレ問題もこの駅頭の一幕で閉息していった。 当時の外資合弁の一全盛期とも言える時代の日本産業界にあって、北海道だけは一定の自主性を保つ事ができた。 ある道政通の批評家は、「林路一のネスレ事件関與の功はこれを一言に帰さば、その暴力行為の是認が産業の基礎を作ったことになる。この暴力が合法的でないとする人あらば、それは大きい犠牲とし容認さるるであろう」「本道の政治家にして、何人かよくこれを為し得るものあらんや。他人の進言に非是の批判を加え得るものは市井多きと雖も、これを実行に移さんか、その多くは勇気に欠くも、彼は然らざりき。是れすなわち彼が能く他人のせざるところを敢て為せる所以である。彼の才覚の人に秀でたる、またその早世や惜しむべく、長恨の至りなり」と評している[誰?]。
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