ニュー・ジャーマン・シネマ
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「ドイツの映画」の記事における「ニュー・ジャーマン・シネマ」の解説
ドイツにおける芸術や映画の停滞に対抗するように、1962年2月28日、ある一群の若手映画監督達が「オーバーハウゼン宣言」(Oberhausen Manifesto)を発表した。メンバーであったアレクサンダー・クルーゲ、エドガー・ライツ、ペーター・シャモーニーなどは"Der alte Film ist tot. Wir glauben an den neuen." ("古い映画は死んだ。我々は新しい映画を信じる。)と宣言した。フォルカー・シュレンドルフ、ヴェルナー・ヘルツォーク、ジャン=マリー・ストローブ、ヴィム・ヴェンダース、ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーなどの若手監督もこの宣言に同調し、既存の映画産業を否定し、商業的に成功する作品というよりも、芸術性に重きを置いた新しいドイツ映画を作り上げる活動を始めた。 1965年、資金面でニュー・ジャーマン・シネマを支援するために内務省の下にKuratorium Junger Deutscher Film (Young German Film Committee)が設立された。ニュー・ジャーマン・シネマの監督たちは既存のスタジオ等と手を組むことを拒否していたため、テレビ局から資金提供を得ることが多かった。若い監督達はそういった環境の中でドキュメンタリーやテレビシリーズで活躍していった。しかし、放送局は彼らの映画作品をテレビで放映し、後に劇場公開するという形になってしまったため、興行的に見ると成功しなかった。 その状況は1974年にドイツ公共放送連盟 (ARD)、第2ドイツテレビ (ZDF)、German Federal Film Boardといった主要なテレビ局の間でFilm-Fernseh-Abkommen (Film and Television Accord) が設定されて変わっていく。この協定の元、映画作品がテレビで放映されるのは劇場公開から24ヵ月後となった。一方、ビデオやDVDは公開の6ヵ月後に発売することが出来る。その結果、ニュー・ジャーマン・シネマの作品たちはテレビで放映される前に劇場で上映され、興行成績を上げることが出来るようになった。 ニュー・ジャーマン・シネマの動きは、ヴァイマル共和政後期の繁栄以来はじめてドイツ映画の評価を国際的に高めるものとなった。クルーゲの『昨日からの別れ』(1966)、ヘルツォークの『アギーレ 神の怒り』(1972)、ファスビンダーの『Fear Eats the Soul』(1974)や『マリア・ブラウンの結婚』(1979)、ヴェンダースの『パリ、テキサス』(1984)は国際的に高い評価を得た。こういった映像作家達は、ドイツ国内よりも海外でまず評価されることが多かった。戦後ドイツの代表的な小説家であるハインリヒ・ベルやギュンター・グラスなどの作品が映画化され、『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』(1975) (シュレンドルフとマルガレーテ・フォン・トロッタの共同監督) や『ブリキの太鼓』(1979) (シュレンドルフ監督)が製作された。特に『ブリキの太鼓』はドイツ映画として初めて アカデミー外国語映画賞を受賞した。また、ニュー・ジャーマン・シネマの時代には多くの女性監督が現れ、フォン・トロッタ、ヘルマ・サンダース・ブラームスやヘルケ・ザンダーなどが活躍した。
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