ドネツク人民共和国公人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 05:33 UTC 版)
「イゴール・ガーキン」の記事における「ドネツク人民共和国公人」の解説
私は国際法について全く心配していません。なぜならばそれは勝者の道具だからです。国際法が私たちを裁くのは、私たちが敗北した時です。 — Igor Strelkov, "Radio-KP", 18 January 2016 2014年4月26日・27日の週末、分離主義者でドネツク人民共和国(DPR)の政治指導者アレクサンドル・ボロダイ(モスクワ出身のロシア人、ガーキンの長年の友人)は ドネツク全域の全ての分離主義勢力戦闘員の統制権をガーキンに譲渡した。 4月26日、「ガーキン」はコムソモリスカヤ・プラウダにビデオ・インタビューを送り、そこで初めてスラヴャンスクの彼の勢力はクリミアから来たことを公にした。そこで、ガーキンは、自身の経歴については明かさず、ロシアからの武器・弾薬の受領について否定し、 さらに、ウクライナ政府が親露派の活動家を解放しない限り、人質の欧州安全保障協力機構(OSCE)の職員を解放しないと発表した。 4月28日、EUは、「イゴール・ガーキン」はロシア連邦軍参謀本部情報総局の職員として軍事行動を調整しており、さらにクリミア共和国首相のセルゲイ・アクショーノフの安全保障補佐官であると思われると発表した。 4月29日、ガーキンはクラマトルスクの新しい警察署長を任命した。 5月12日、ガーキンは自身が、「ドネツク人民共和国の全ての軍隊、治安部隊、警察、税関、国境警備隊、検察官及びその他の準軍組織の最高指揮官である」と宣言した。 国連人権高等弁務官事務所は、「伝えられるところによると、5月26日、ガーキンの命令によって、ドミトロ・スラヴォフ(「人民民兵中隊長)及びミコラ・ルキャノフ(ドネツク人民共和国民兵隊の小隊長」)は、戦場放棄、略奪、強盗を行ったと判決された後、スラヴャンスクで処刑された。」と報告した。 この命令は、スラヴャンスクの街頭に掲示され広く流布された。処刑の根拠は1941年6月22日のソビエト連邦最高会議幹部会の法令とされた。その報告書はさらに、地方の女性を武装勢力に呼び込むためにガーキンが尽力していることについて言及した。具体的には、5月17日、「ガーキン・ガーキン」が、ビデオを公開し、女性に武装勢力への参加を呼びかけ、ドネツク地域の女性に戦闘部隊に入隊するよう促した。 スラヴャンスクの分離主義者の「人民市長」であり、ガーキンの元上司であるポノマレフは、6月10日、ガーキンの命令によって、「民生の目標と任務にそぐわない活動を行った」として拘束された。[要出典] 2016年1月18日の「Radio-KP」とのインタビューで、ガーキンは超法規的処置によって、スラヴャンスクにいた間に少なくとも4人を銃殺刑に処したこと認めた。
※この「ドネツク人民共和国公人」の解説は、「イゴール・ガーキン」の解説の一部です。
「ドネツク人民共和国公人」を含む「イゴール・ガーキン」の記事については、「イゴール・ガーキン」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書からドネツク人民共和国公人を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- ドネツク人民共和国公人のページへのリンク