トロイカ体制時代
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2006年4月7日、「堀江メール問題」による前原執行部総退陣。その後行われた代表選挙に再度立候補し、小沢一郎と激しく争い47票差で敗れた。その後、党代表代行に就任。代表に就任した小沢一郎、幹事長の鳩山由紀夫と菅の3人による挙党一致体制はトロイカ体制と呼ばれ、2009年に起きた政権交代の原動力となった。菅は党代表代行として国会論戦について主に担当し、国会での代表質問、テレビ出演などを積極的にこなした。 2007年東京都知事選挙 2007年4月の東京都知事選挙への出馬待望論が民主党内で沸き起こった。背景には民主党が都議会で与党だったにも拘らず独自候補の擁立を図る小沢執行部の方針と人選がなかなか決まらぬお家事情があり、党中央の要職にある菅本人が出馬の可能性を否定し続ける中、石原慎太郎東京都知事に対抗できる目玉候補として朝日新聞などにも立候補を促された。しかし「国政に携わり政権交代を実現する」ため「太陽が西から出ても、出ることはない」と固辞を貫いた。その一方で浅野史郎前宮城県知事など党内外の知名度の高い人物に出馬を打診したとされるがことごとく失敗した。この問題では、菅直人と親交関係にある五十嵐敬喜法政大学教授や当時・菅グループのメンバーで民主党都連会長円より子らが立ち上げた市民団体「浅野史郎さんのハートに火をつける会」(現都民のハートに火をつける会)などの説得に応える形で浅野が立候補を決意したことで、民主党は独自候補の擁立を見送って社民党などとともに支援に回ることとなったが、浅野があまり都政に精通していなかったことやなかなか決断せず立候補の表明が遅れたこと、さらに日本共産党が擁立した吉田万三前足立区長との一本化に失敗したことなどが響き、浅野は石原知事に惨敗した。 ガソリン国会 2008年2月、民主党道路特定財源・暫定税率問題対策本部長として、小沢代表のもとでガソリン国会の陣頭指揮を取り、国会論戦、テレビ出演、地方視察を行った。この中で自民党の二階俊博、古賀誠などを、道路族幹部として激しく批判した。 YKKK この頃、自民党の山崎拓、加藤紘一、国民新党の亀井静香としばしば意見交換を交わすなど連携を深め4人の頭文字から「YKKK」と称された。山崎は2008年12月14日に4人そろって出演したテレビ朝日系の番組サンデープロジェクトで「この4人が政界再編の一つの軸となり得る」と語った。 2009年5月に小沢一郎が西松建設事件に関連して自身の公設秘書が逮捕された件で党代表を辞任すると、後任の代表となった鳩山由紀夫により、菅は引き続き党代表代行に再任。小沢も代表代行に就任しトロイカ体制は継続された。
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