トロイエンブリーツェンの虐殺とは? わかりやすく解説

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トロイエンブリーツェンの虐殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/13 00:40 UTC 版)

トロイエンブリーツェンの虐殺は、第二次世界大戦末期の1945年4月から5月にかけてソ連軍がドイツブランデンブルク州トロイエンブリーツェンドイツ語版村で行った民間人虐殺事件である[1]

事件の概要

1945年4月11日ソ連軍第13軍が同地に到着したが、すぐにヴィッテンベルク方面へ進軍した。4月21日第1ウクライナ戦線が占領し[2]、戦勝祝いとして大宴会を開き、ドイツ人婦女を拉致した[3]4月22日、ソ連軍司令部に対して決死隊が攻撃し、フョードル・シャルチンスキー (Fedor Schartschinski) 中佐が射殺される[1]

4月23日朝、国家労働奉仕団ヒトラーユーゲントによって増強されたドイツ国防軍第12軍、特にトロイエンブリーツェンの第215歩兵連隊が制圧する[4]

4月23日午後から夕方にかけて赤軍が反撃し再占領するが、この際にドイツ人の市民が多数虐殺されたとみられている[3]。さらに4月23日以降も虐殺は続き、被害者は森の側へ選ばれ、女性と子供以外の男性は並ばされ射殺された[2][5][6]。地域の登記所では254人の死者数が記録されているが、目撃者によれば800人以上の住民と難民が虐殺され、少なくとも721人の遺体数があったという[7]。現在では約1000人が犠牲になったとみられている[1][8][7]。遺体は戦争が終結するまで牧草地に放置され、その後、6つの集団墓地に重ねられて、公式の記録では少なくとも125の遺体があった[9]

戦後

虐殺の被害者のための慰霊施設はゲーテ通りにある。

ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)では爆撃による被害者としてみなされ、虐殺についての究明は行われてこなかった[10]。旧ドイツ社会主義統一党は公式には被害者数を88人と発表していた[3]

1995年に、被害者の慰霊のための記念日が設置され、ロシアとイタリア大使館も参列している[1][11]

2008年のポツダム検察庁の調査では数は不明だが、虐殺が行われたことは確実で、研究のための会議を設置するとした[12][13]

参考文献

外部リンク

脚注

  1. ^ a b c d ディー・ヴェルト: Massaker in Treuenbrietzen – das Tabu ist gebrochen vom 29. November 2008.
  2. ^ a b デア・シュピーゲル:Späte Bemühungen,2008,Nr1,Seiten31
  3. ^ a b c ベルリーナー・ツァイトゥングドイツ語版: Der Obelisk wankt vom 8. Mai 1998.
  4. ^ ディー・ターゲスツァイトゥング: Ludwigsburgs letzte Mordpuzzles vom 17. Mai 2005.
  5. ^ Der Tagesspiegel: Stadt ohne Männer vom 21. Juni 2006.
  6. ^ Mitteldeutsche Zeitung: Rätsel um zwei Massaker vom 2. Januar 2009.
  7. ^ a b ベルリーナー・ツァイトゥング: Das Massaker von Treuenbrietzen vom 25. November 2008.
  8. ^ ベルリーナー・モルゲンポストドイツ語版: Justiz ermittelt wegen Massaker von 1945 vom 25. November 2008.
  9. ^ Regina Scheer: Der Umgang mit den Denkmälern. Eine Recherche in Brandenburg. Brandenburgische Landeszentrale für politische Bildung/Ministerium für Wissenschaft, Forschung und Kultur des Landes Brandenburg. Der Umgang mit den Denkmälern, S. 90 (PDF-Datei; 1,54 MB)
  10. ^ ポツダマー・ノイエステ・ナーハリヒテンドイツ語版: Ermittler prüfen Massaker Erschoss Rote Armee in Treuenbrietzen Hunderte? vom 24. November 2008.
  11. ^ ノイエス・ドイチュラント: Die Lebenden und die Toten von Treuenbrietzen vom 8. Januar 2009.
  12. ^ "Staatsanwaltschaft ermittelt gegen sowjetische Soldaten". Junge Freiheit. 2008年11月24日. 2011年9月8日閲覧
  13. ^ "Staatsanwaltschaft erhofft sich Informationen aus russischen Archiven zur Erschießung Hunderter Zivilisten im April 1945 in Treuenbrietzen". Märkische Allgemeine. 2008年11月27日. 2011年9月8日閲覧

関連項目


トロイエンブリーツェンの虐殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 01:03 UTC 版)

ソビエト連邦による戦争犯罪」の記事における「トロイエンブリーツェンの虐殺」の解説

トロイエンブリーツェンの虐殺は赤軍激し戦い行った後、トロイエンブリーツェンを占領した1945年4月末から5月最初の日の間に発生したソビエト赤軍民間人約1,000名(大部分男性)を集め近く処刑したが、この処刑影響及ぼしソビエト赤軍高級将校殺害という報復が行われた。

※この「トロイエンブリーツェンの虐殺」の解説は、「ソビエト連邦による戦争犯罪」の解説の一部です。
「トロイエンブリーツェンの虐殺」を含む「ソビエト連邦による戦争犯罪」の記事については、「ソビエト連邦による戦争犯罪」の概要を参照ください。

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