デ・サブラ日本庭園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/04 08:10 UTC 版)
「ヘンリイ・パイク・ブイ」の記事における「デ・サブラ日本庭園」の解説
ヘンリーが造った日本庭園は、原形のままではないが、「デ・サブラ・ユージン・ジュニア・ティーハウス・アンド・ザ・ガーデン」の名でサンマテオに残されており、アメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている。ユージーン・デ・サブラJr.は、ヘンリーらが創設したサンフランシスコ日米協会の会員でもあった実業家(パシフィック・ガス・アンド・エレクトリック・カンパニーの創業者の一人)で、1906年にヘンリー所有の土地を含むホワード家の地所を購入し、その一部を日本庭園として新たに整備した。一帯は現在「デ・サブラ通り」の名称になっており、日本庭園は同通りの70番地にある(個人所有のため非公開)。 ヘンリーは1886年ごろに、ホワード家の所領El Cerrito内に、アグネスとの新居Severn Lodgeを持っていたが、その北一帯に桜並木と鯉の泳ぐ池を造り、5エーカーの日本風庭園を造った。その後造園には、日本で知った庭師のアイハラ・ナオハルが関わったと言われる。19世紀末のアメリカでは、シカゴ万国博覧会 (1893年)への日本参加をきっかけに日本庭園への関心が深まり、サンフランシスコでも1894年にゴールデンゲートで開催された博覧会内に「日本村」が造られ、会期終了後もアイハラなどの庭師によって庭園が整備されジャパニーズ・ティー・ガーデンとして残されたほか、自邸に日本庭園を造る富裕層が増え、日本人庭師の評判は高かった。 El Cerritoを購入したデ・サブラは、ヘンリーの庭を一部引き継ぐ形で約1エーカーの日本庭園を造るが、これは日系移民の萩原真が『築山庭造伝(後編)』(秋里籬島著)を参考に造園したとされている。萩原は商人だったが上述のジャパニーズ・ティー・ガーデンを管理し庭内で茶店を経営するほか、サンフランシスコ周辺の日本庭園の造園を請け負っていた。ヘンリーの発案により日露戦争後に戦勝記念門が造られ、1909年に訪米した渋沢栄一使節団を招いてお披露目会が催された。1909年ごろに木造平屋の利休風の茶室も造られた。 その後El Cerritoの所有者は変わり、1940年代には細かく分割売却されたが、日本庭園と茶室は残り、1946年ごろに新しい所有者によって2階屋を含む新しい建物が茶室に増築され、住居として改築された。また、庭園内に倉庫も新築された。その後も所有者は変わり続けているが歴史的財産として保護されている。
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