デンマークの奴隷貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 06:07 UTC 版)
「デンマーク領黄金海岸」の記事における「デンマークの奴隷貿易」の解説
デンマーク人は17世紀半ばから19世紀初頭まで奴隷貿易に関与していた。デンマークの海軍と商船隊は、この時期にヨーロッパで4番目の規模だった。1660年代に黄金海岸植民地が設立された当初は「金や象牙などの商品が支配的」だったが、「18世紀の変わり目までに、奴隷はデンマークの貿易において最も重要な商品」となった。「大型奴隷船は、アフリカの海岸に到着すると、船室を一種の移動可能なショールームに変えるようにしばしば指示された」。18世紀全体を通しての集計では、「アフリカ人奴隷の輸出のうち、デンマークによるものは、黄金海岸からの総輸出の約5%を占めて」いた。特に、1780年代までで見れば、比率は10%にまで上昇する。 1672年、デンマーク西インド・ギニア会社は、カリブ海のセント・トーマス島に植民し、さらに1718年にはセント・ジョン島に、1733年にはセント・クロイ島にも植民し始めた。これらの領土はかなり小さく、合計面積350平方キロメートル(対馬島の約半分)でしかなかったが、「奴隷労働に依存した集中的で収益性の高い砂糖生産のため、デンマークの旗の下での大西洋奴隷貿易において最も重要になった」。その結果、「デンマーク西インド諸島の奴隷の死亡率は出生率よりも高かったため」、「毎年奴隷を輸入する必要があった」。これらの奴隷にされた人間のほとんどは「アフリカから直接」運ばれたが、残りは「外国のカリブ海の島々」から来た。 1803年に奴隷貿易が廃止された後、デンマークの植民者たちは「代わりに黄金海岸に綿、コーヒー、砂糖のプランテーション」を設立しようとしたが、ほとんど成功しなかった。1817年に「(黄金)海岸のデンマークのほぼすべての拠点は、クリスチャンズボー以外は見捨てられた」。そして1850年にはクリスチャンズボーも含めて英国に売却された。大西洋奴隷貿易を通じて、約1,250万人のアフリカ人が捕らえられ、そのうち1,070万人が南北アメリカに移送されたと推定されている。デンマークの奴隷貿易はこの貿易の約1%を占め、「約10万人のアフリカ人が輸出された」。デンマークは奴隷貿易を禁止した(1792年)最初のヨーロッパ植民地帝国だったが、この法律は1803年まで施行されず、違法取引は19世紀まで続いた。
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