テムルの出陣
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「ナヤン・カダアンの乱」の記事における「テムルの出陣」の解説
「ナヤンの乱」が始まった翌年の1288年(至元25年)4月、抗戦を続けるカダアン軍に対してクビライは孫のテムルを主将とする新たな討伐軍の派遣を決定した。翌5月には武平路から馬5千匹を徴発してテムル軍に与え、またケシクテイに属する者達と漢人軍併せて5300人、また侍衛親軍の中からも漢人兵5000人を選抜してテムルに与え、北上させた。 一方、この頃カチウン・ウルスでは新たに当主となったエジルがカダアンと与して抵抗を続ける諸王コルコスンの攻撃を受けるという事件が起きており、急行したトトガク率いるキプチャク軍団がウルクイ川でコルコスン軍を破った。後に、この時の救援に感謝したエジルはトトガクに自らの妹タルン(塔倫)を娶らせている。また、ウズ・テムル麾下のベク・テムルや洪万の部隊は「斡麻站」「兀剌河」「麦哈必児哈」「明安倫城」「忽蘭葉児」といった場所で長らくカダアン軍と戦っていたが、テムルが出陣準備を整えていた5月に「帖里掲」の戦いで不利に陥り、洪万は軍功を挙げたがベク・テムルは体中に矢傷を負って退却せざるをえなくなった。 夏頃、テムル率いる討伐軍はウルクイ川にて現地で戦闘を続けていた部隊と合流して軍勢を整え、一方カダアン軍はタウル河に駐屯しており、8月に両軍はタウル川とその支流グイレル川の間の平原にて激突した。この戦闘にはイキレス部のクリル、ベク・テムル、洪万、李庭らが参戦しており、李庭が矢傷を左脅と右股に受けながらも精鋭とともにグイレル川の上流に至り「火砲」を発したことでカダアン軍の馬を驚かせ、その隙に元軍は一斉にその下流を渡河してカダアン軍に迫った。「火砲」の発射によって馬の統制を失ったカダアン軍は元軍の攻勢を支えきれず、ベク・テムルが敵将の一人アルグン・キュレゲン(駙馬阿剌渾)を討ち取る活躍を見せたことで元軍の勝利が決まった。敗北したカダアン軍本隊はタウル川を渡って南に逃れ、敗残兵100人余りが周囲の山谷に逃れた。クリルは200の兵を率いてこれらの敗残兵を駆り立て、セチェゲンらによる制止も無視してこれらを皆殺しとした。 このようにして元軍はカダアン軍に大勝利を収めたが、主力軍を指揮するウズ・テムルは主将のテムルに「既に冬の厳寒期が近づいてきており、春が訪れるのを待って黒竜江方面に進み、カダアン軍の本拠地を攻撃すべきであろう」と進言し、テムルもこれに従った。この一戦でカダアン軍が受けた打撃は大きく、実際に1288年末から1289年にかけてカダアン軍の目立った動きは見られなくなるが、カダアンらは抗戦を諦めず叛乱は簡単には終結しなかった。
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