テムルの出陣とは? わかりやすく解説

テムルの出陣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:37 UTC 版)

ナヤン・カダアンの乱」の記事における「テムルの出陣」の解説

ナヤンの乱」が始まった翌年1288年至元25年4月抗戦続けカダアンに対してクビライは孫のテムル主将とする新たな討伐軍の派遣決定した。翌5月には武平路から馬5千匹を徴発してテムル軍に与え、またケシクテイに属する者達と漢人併せて5300人、また侍衛親軍の中からも漢人5000人を選抜しテムル与え北上させた。 一方この頃カチウン・ウルスでは新たに当主となったエジルカダアン与して抵抗続け諸王コルコスン攻撃を受けるという事件が起きており、急行したトトガク率いキプチャク軍団がウルクイ川でコルコスン軍を破った。後に、この時の救援感謝したエジルトトガクに自らの妹タルン(塔倫)を娶らせている。また、ウズ・テムル麾下のベク・テムルや洪部隊は「斡麻站」「兀剌河」「麦哈必児哈」「明安倫城」「忽児」といった場所で長らくカダアン軍と戦っていたが、テムル出陣準備整えていた5月に「帖里掲」の戦いで不利に陥り、洪軍功挙げたがベク・テムルは体中矢傷負って退却せざるをえなくなった。 夏頃、テムル率い討伐軍はウルクイ川にて現地戦闘続けていた部隊合流して軍勢整え一方カダアン軍はタウル河に駐屯しており、8月両軍タウル川とその支流グイレル川の間の平原にて激突した。この戦闘にはイキレス部のクリル、ベク・テムル、洪李庭らが参戦しており、李庭矢傷を左脅と右股に受けながらも精鋭とともにグイレル川の上流に至り火砲」を発したことでカダアン軍の馬を驚かせ、その隙に元軍は一斉にその下流渡河してカダアン軍に迫った。「火砲」の発射によって馬の統制失ったカダアン軍は元軍の攻勢支えきれず、ベク・テムルが敵将一人アルグン・キュレゲン(駙馬阿剌渾)を討ち取る活躍見せたことで元軍の勝利決まった敗北したカダアン本隊タウル川を渡って南に逃れ敗残兵100余り周囲山谷逃れたクリル200の兵を率いてこれらの敗残兵駆り立て、セチェゲンらによる制止無視してこれらを皆殺しとした。 このようにして元軍はカダアン軍に大勝利収めたが、主力軍を指揮するウズ・テムル主将テムルに「既に冬の厳寒期が近づいてきており、春が訪れるのを待って黒竜江方面進みカダアン軍の本拠地攻撃すべきであろう」と進言し、テムルもこれに従った。この一戦カダアン軍が受けた打撃大きく実際に1288年末から1289年にかけてカダアン軍の目立った動き見られなくなるが、カダアンらは抗戦諦めず叛乱簡単に終結しなかった。

※この「テムルの出陣」の解説は、「ナヤン・カダアンの乱」の解説の一部です。
「テムルの出陣」を含む「ナヤン・カダアンの乱」の記事については、「ナヤン・カダアンの乱」の概要を参照ください。

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