タバコ業界のキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 06:47 UTC 版)
「ワシントン・デューク」の記事における「タバコ業界のキャリア」の解説
南北戦争後、デュークは農業をやめ、タバコの製造を始めた。1865年、デュークはトウモロコシ小屋をタバコ工場に改造して最初の会社「W・デューク・アンド・サンズ」(W. Duke and Sons)を設立し、"Pro Bono Publico"(プロ・ボノ・パブリコ、ラテン語で「公共の利益のために」の意味)というブランド名のパイプタバコの生産を開始した。デュークによると、息子のベンやバックとともに、1日に400〜500ポンドのパイプタバコを生産していたという。徐々に会社が繁盛してきたため、1869年には自身の農場内に2階建ての工場を建設した。1874年、デュークは農場を売却し、急速に発展する都市ダーラムに家族を移住させた。デュークと息子たちはダーラムのメインストリートに工場を建設し、それから10年間、自社のタバコを売り込むセールスマンとなった。 1880年、60歳になったデュークは、近くのフランクリン郡の農家であるリチャード・ハーベイ・ライトに事業の株式を売却した。ワシントン・デュークの息子のジェームズが社長を務めるW・デューク・アンド・サンズ社は、やがてタバコメーカーとして大きな成功を収めた。この事業は、1890年頃にアメリカン・タバコ・カンパニーとなった。そして、複数のパートナーの合併や、株式の浮動株化によって、世界最大のタバコメーカーとなった。 会社の株式を売却した後、デュークは、共和党員として地元の政治に関与するようになり、慈善事業に時間を割くようになった。生涯に渡りメソジスト派の信者であり支援者であったデュークは、地元の教会を財政的に支援するとともに、高等教育機関の支援も始めた。デュークは、1890年にメソジスト派の大学であるトリニティ・カレッジをランドルフ郡からダーラムに移転させることに尽力した。1896年、トリニティ・カレッジが財政難に陥っていた時、デュークは「女性に門戸を開き、男性と同等の立場にする」という条件で10万ドルを寄付した。そのお礼として、大学側から校名をデュークにちなんで改名することが申し出されたが、デュークはこれを断った。 ワシントン・デュークは、1905年5月8日にダーラムの自宅で84歳で亡くなった。遺体はダーラムのメイプルウッド墓地に埋葬されたが、後にデューク大学のキャンパス内にある記念聖堂に改葬された。 1910年代、デューク家の人々は、トリニティ・カレッジのためのデューク基金を計画し始めた。1924年12月、ワシントンの息子のジェームズが4,000万ドルのデューク基金の契約書に署名した後、トリニティ・カレッジをワシントン・デュークに敬意を表してデューク大学に改称した。現在、デューク大学の東キャンパスには、ワシントン・デュークの銅像が建っている。
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