ソビエト・ウクライナ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:22 UTC 版)
「ホロドモール」の記事における「ソビエト・ウクライナ戦争」の解説
詳細は「ソビエト・ウクライナ戦争」、「クラーク撲滅運動」、および「ソビエト連邦における農業集団化」を参照 1917年2月にロシアで二月革命が起きると、ウクライナでは3月に自治組織ウクライナ中央ラーダが組織され、5月にはロシア臨時政府に自治を認めるよう要求したが、臨時政府は拒否した。6月、ウクライナ中央ラーダは「ウクライナ人民は自分の土地で自分の生活を自分で決める権利を持つ」とする第1次宣言を出した。キエフ出身のチェレシチェンコ外相、ケレンスキー、ツェレチェリらソビエト指導部とラーダはキエフで6月30日に会談し、中央ラーダをウクライナ統治の最高機関として承認した。しかし、立憲民主党(カデット)の三人の大臣が強く自治に反対し、抗議辞任した。 ボリシェヴィキによる十月革命が起きると、中央ラーダは10月29日に臨時政府系のキエフ軍管区司令部に対してウクライナ共産党の釈放とキエフからの退去を要求した。しかし、中央ラーダは全ての社会主義者による政権を望んでおり、1917年11月7日、中央ラーダはウクライナ人民共和国の成立を宣言した。ボリシェヴィキは11月15日にスターリン署名で「ロシア諸民族の自治権」布告を出していたが中央ラーダとレーニン政府の対立は深刻なものとなった。11月にロシア系の労兵ソヴィエトがドンのカレージン軍と敵対すると、これに対して中央ラーダ政府がソヴィエトの武装解除を開始した。12月3日、人民委員会議がウクライナによるソヴィエト派の武装解除の中止を求めたが、ウクライナ側は自治権の侵害だと拒否した。ウクライナに対抗してボリシェヴィキはハリコフで傀儡政権ウクライナソビエト共和国樹立を宣言し、12月にはソビエト軍(遠征軍)がウクライナ侵攻を開始した。1918年1月、キエフ総攻撃が始まるとウクライナのラーダ政府はキエフを脱出し、西へ向かい、ドイツ・オーストリアの中央同盟国との交渉に入った。1月26日、ソビエト軍はキエフを占領したが、2月末にドイツ・オーストリアが奪還し、3月にはドイツ・オーストリアとロシアとの講和条約ブレスト=リトフスク条約が締結され、ロシアはウクライナから退却した。ロシア・ソビエトによるウクライナ侵攻によって、ウクライナ農民はソビエトに不信の念を強めた。
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