スーパーグループ結成 - 解散(1977年 - 1980年)
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元キング・クリムゾンのメンバーであるジョン・ウェットン(ボーカル、ベース)とビル・ブルーフォード(ドラム)が、キング・クリムゾンのようなインプロビゼーション主体のロックを再びプレイしようと話をしたことに端を発する。当初は元キング・クリムゾンのイアン・マクドナルドが参加するとも言われていたが実現しなかった。 1976年、ELPを発展させた音楽を作って米国の市場を開拓しようというコンセプトのもと、ウェットンとブルーフォードは元イエスのリック・ウェイクマンを誘い、キーボード・トリオ編成での活動を試みるがレコード会社の問題(当時にウェイクマンの所属していたレコード会社、A&Mが「リック・ウェイクマンのバンド」として売り出すことに固執したと言われている)、マネージメントの問題(ギャラの配分及びバンド名に個人の名称を入れるかどうかで意見が分かれたと言われている)で数週間のリハーサルのみで挫折。このときにリハーサルされた曲の一部は後にブルーフォードのソロ・アルバム『フィールズ・グッド・トゥ・ミー』にて別アレンジで公開されている。 1977年、ウェットンがロキシー・ミュージックで一緒になったエディ・ジョブソン(キーボード、ヴァイオリン)に参加を打診。リハーサルの途中でギタリストの必要を感じたのでブルーフォードが自身のソロ・アルバム『フィールズ・グッド・トゥ・ミー』に参加していたアラン・ホールズワース(ギター)を誘い、ファースト・アルバムに参加する4人のメンバーが決定した。 1978年、このメンバーによるファースト・アルバム『U.K. (憂国の四士)』をリリースしツアーを行う。ツアーでは新曲も披露されるがこの時点で音楽性の不一致は隠せない物となる。ホールズワースが解雇されることになり、ブルーフォードも脱退することとなった。ブルーフォードとホールズワースはよりジャズ/フュージョン的な音楽性を求め、フュージョン・バンド「ブルーフォード」を結成する。 ジョブソンとウェットンは後任のドラマーとして、ジョブソンの知り合いでフランク・ザッパのマザーズ・オブ・インヴェンションで活動していたテリー・ボジオを誘い、キーボード・トリオ編成でバンドを再スタートさせる。 1979年、セカンド・アルバム『デンジャー・マネー』をリリース(第2期メンバー)。同年5月に第2期メンバーで初来日(「デンジャー・マネー・ツアー」東京・大阪・名古屋で、全5公演が開催)。来日公演でのライブ・アルバム制作に伴い公演を録音する。同年、日本公演のライブ・アルバム『ナイト・アフター・ナイト (ライヴ・イン・ジャパン)』をリリースするものの徐々にジョブソン色が強くなっていく中でウェットンとジョブソンの方向性に違いが生まれ、翌年ツアー後に解散した。ウェットンのインタビューによると「日本での異様な人気で、エディが有頂天になってしまい手がつけられない状態になっていた」という。
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