スポットシルバニアにおける惨事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 17:08 UTC 版)
「ジョージ・ヒューム・ステュアート」の記事における「スポットシルバニアにおける惨事」の解説
それから間もない1864年5月8日から21日に起きたスポットシルバニア・コートハウスの戦いでは、ステュアート自身がその旅団の多くと共に捕まえられた。「ミュール・シュー」と呼ばれる突出部での激しい戦闘中のことだった。「ミュール・シュー」突出部は南軍前線から出っ張った部分であり、高台にあって戦略的な位置にあったが、3方から攻撃されると脆弱なものだった。5月11日夜、グラントの次の攻撃でどこも落ちるものと考え、南軍の指揮官達はこの突出部から大砲の大半を引上げた。ステュアートは、彼の証言に拠れば、敵の準備状況を知らされ、ジョンソンに差し迫っている敵の攻撃を報せ、大砲の返還を要求する伝言を送っていた。 5月12日夜明けの直ぐ前に、北軍ウィンフィールド・スコット・ハンコック少将の第2軍団に属する3個師団全軍が、深い霧の中を、ミュール・シューを攻撃し、南軍にとっては急襲されたことになった。南軍は疲れており、食料が適当でなく、大砲の支援も無く、夜来の雨で火薬も湿っており、北軍が集中した時にこれら全てが南軍の崩壊に繋がった。ステュアート隊を圧倒し、バージニア旅団は実質的に終末を迎えた。南軍のマスケット銃は火薬が湿って発砲できなかった。残っていた大砲2門は別にして、南軍には実質的に火器が無かった。それに続いた激しい白兵戦の中で、ステュアートは北軍ジェイムズ・A・ビーバー大佐のペンシルベニア第148歩兵連隊に降伏を強いられた。ビーバーはステュアートに「貴方の剣はどこにありますか?」と尋ね、これに対してステュアートはかなりの皮肉を込めて、「うん、貴方達が朝早く我々を起こしたので、それを身に付けてくる時間が無かった」と答えた。ステュアートはハンコック少将の元に連れていかれた。ハンコックはこの戦闘以前にステュアートの妻マリアをワシントンで見たことがあり、彼女の夫に関する報せを伝えたいと思った。ハンコックは手を伸ばして「ご機嫌はいかがかな? ステュアート」と尋ねた。しかしステュアートは握手を拒んだ。この二人は戦前に友人だったが、このときは敵同士だった。ステュアートは「状況を考えれば、将軍、私は貴方の手を握ることを拒むことになる。」と言い、それに対してハンコックは「それで他のどのような状況にあっても、将軍、私はそれの提案を拒んできたんだ」と答えたと言われている。この出来事の後、気分を悪くしたハンコックは、他の捕虜と共にステュアートを北軍の後方に歩いて行かせることにした。 戦闘が終わった後、ステュアートは戦争捕虜としてサウスカロライナ州チャールストンに送られ、後にはヒルトンヘッドで収監された。そこではステュアートも他の士官も南軍からの砲撃を受けることになった。スポットシルバニア・コートハウスの戦いはステュアートの旅団の終焉となった。戦闘開始時に6,800名だったジョンソンの師団は大きく人員を減らして、やっと1個旅団を編成できるだけになった。5月14日、ウォーカー、ジョーンズ、ステュアートの旅団を統合して、バージニア第4歩兵連隊テリー大佐の下に、小さな旅団として編成した。
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