ストライキと終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 01:34 UTC 版)
「マキノ・プロダクション」の記事における「ストライキと終焉」の解説
1930年(昭和5年)12月、賃金未払いが発生、従業員はストライキを起こした。19日夜から、女優達は京極太平洋のカフェーに進出。長男のマキノ正博は従業員側につき、争議委員長としてマキノ本家(同社代表取締役の母・牧野知世子、弟・マキノ満男)との交渉の先頭に立った。このとき争議委員長は代表取締役に殴られる。 翌1931年(昭和6年)1月30日、マキノキネマ関東配給所代表の阪間好之助(阪間商事社長)の調停で争議終結、同社の製作権・配給権を従業員側に譲渡、製作再開する。1月は6本、2月は旧作の再編集作品『マキノ大行進』を含めた6本、3月は10本を製作・配給したが、ふたたび賃金未払いが起こり、争議は悪化する。4月には4本を製作するに留まる。同年4月24日に公開した金森万象監督の『京小唄柳さくら』が、同社の最終作品となった。 同年6月2日、「新マキノ映画株式会社」を設立するが、御室撮影所の製作業務は再開されず、俳優の退社がつづく。水道、電気不払いにより争議再燃。マキノ雅弘社長は辞表を提出して行方不明となる。同年8月、マキノ智子・沢村国太郎夫妻らが退社、9月には監督の滝沢英輔(瀧澤憲)、並木鏡太郎監督が退社、ともに東活映画社へ移籍する。同年10月、「新マキノ映画株式会社」は解散、高村正次が直木三十五の協力を得て「大衆文芸映画社」を設立する。翌1932年(昭和7年)御室撮影所焼失。 当時23歳のマキノ正博が、マキノ・プロダクションおよび牧野省三の遺した37万円(当時)という巨額の負債をひとりで背負うこととなった。
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