スターリン・フルシチョフ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 06:16 UTC 版)
「エストニアの言語」の記事における「スターリン・フルシチョフ時代」の解説
しかし、1940年にはバルト諸国占領によってエストニアはソビエト連邦へ併合され、その後独ソ戦を経てエストニア・ソビエト社会主義共和国に対するソ連支配は確立した。エストニア語やエストニア文化(英語版)を学びつつ共存していたそれまでの少数民族とは異なり、戦後に大量に流入してきたロシア人は自身の文化を保持したままで、エストニア人とも解け合うことはなかった。1975年の時点で、エストニア国内のロシア人のうちエストニア語を十分に使用できるのは12.5パーセントに過ぎず、これはバルト三国中で最低の水準であった。 ソ連政府によってエストニアでのロシア語学習が義務化され、1956年版指導要領からエストニア語は除外された。1965年から1972年まで中等教育でエストニア語は教えられず、ロシア人生徒はロシア語だけで授業を受けることができた。エストニア語学習はバイリンガル教育とも言えない低レベルなものに留まり、そもそもロシア人が学ぶ第一外国語は英語が通例であった。少数民族学校は閉鎖され、少数民族は皆進学に有利なロシア語学校へ通うようになったため、彼らのロシア化が進んだ。 これらエストニア文化の存立が危ぶまれる状況に、エストニア人らもロシア語の第二言語化には強く抵抗した。エストニア共産党中央委員会(エストニア語版)第一書記のニコライ・カロータム(エストニア語版)も学校教育のロシア化に抵抗し、教育相フェルディナント・エイセン (et) もエストニア語学校におけるエストニア語とエストニア文学の必修化を維持した。これによって、ロシア語学習に要する時間は、民族語学習時間の削減ではなく、中等教育就学年限の1年延長という、ソ連では例外的な形で確保された。国内のエストニア語初頭・中等学校の割合は、1956-1957年の77パーセントから1972年には73パーセントまで低下したが、この割合はなおエストニア人の人口比を若干上回っている。
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