スコティアの航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 09:20 UTC 版)
「ウィリアム・スペアズ・ブルース」の記事における「スコティアの航海」の解説
ブルースはコーツ家からの財政支援があり、ノルウェーの捕鯨船ヘクラを取得し、それを南極観測船に改装して、スコティアと改名した。続いて全てスコットランド人の乗組員と科学チームの要員を指名した。スコティアは1902年11月2日にトルーンを出港し、南極海に向かった。ブルースはウェッデル海四半分で、「南極点にできる限り近い」ところに冬季宿営地を設けるつもりだった。1903年2月22日、船は南緯70度25分に達したが、氷が厚くてそれ以上進めなかった。サウス・オークニー諸島のローリー島まで引き返し、そこで越冬した。科学観測プログラムの一部として、気象観測所のオーモンドハウスが建設された。 1903年11月、スコティアは修繕と物資補給のためにブエノスアイレスまで戻った。アルゼンチンにいる間にブルースはオーモンドハウスがアルゼンチンの支配下で恒久的な気象観測所となるよう、アルゼンチン政府と交渉を行った。その基地はその後オルカダス基地と改名され、継続的に運営が続けられており、南極では最長の気象記録を提供している。1904年1月、スコティアは再度南に向かい、ウェッデル海を探検した。3月6日、ウェッデル海の東部境界の一部に新しい陸地が視認された。ブルースはこの遠征の主要な出資者となってくれたコーツ家にちなみその陸地をコーツランドと名付けた。3月14日、南緯74度1分で氷に閉じ込められる危険性があり、北に転じた。その後はケープタウンを経てスコットランドまでの長い航海は1904年7月21日に完成した。 この遠征は、動物、海洋生物と植物の大量の標本を集め、広範な水理地理学、磁気学、気象学の観測を行った。100年後に、この遠征隊の仕事は「現代の気候変化研究の基礎を築いた」と認められた。またその実験的仕事によって、地球上のこの部分が世界の気候にとって大変重要であることも認められた。海洋学者トニー・ライスに拠れば、当時の南極遠征のどれよりも包括的な計画を実行したと言っている。しかし、当時のイギリス国内での受け取られ方は比較的大人しかった。学術分野ではその業績を称賛されたが、ブルースはその科学的な成果を出版するための資金集めに苦しみ、また全国的な認知がないことについてはマーカムを非難した。
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