ジェイ・クックの登場
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「ノーザン・パシフィック鉄道」の記事における「ジェイ・クックの登場」の解説
続く6年間、後援者たちは資金調達に難渋した。1866年1月5日にジョン・グレゴリー・スミス(John Gregory Smith)が二代目社長となり、1870年2月15日にミネソタ州ダルースの西方25マイル(40km)にあるトンプソン・ジャンクションでようやく起工した。1870年の夏、南北戦争の支援者であったジェイ・クック(Jay Cooke)がNPに興味を抱き、またダルースに愛着を持っていたこともあって、NPに出資し、そのことによりようやく会社としての勢いがついた。 1870年を通じてNPはミネソタから西へと路線を延ばし、当時のダコタ準州(今日のノースダコタ州)に到達した。また、コロンビア川河口に近い当時のワシントン準州(今日のワシントン州)カラマ付近からピュージェット湾(Puget Sound)へと北上するルートも建設を開始した。4つの小さな建設機械が導入され、ミネトンカ(Minnetonka)、イタスカ(Itaska)、オッターテール(Ottertail)、セントクラウド(St. Cloud)で使用された。それらは、喜望峰経由カラマまで船舶で輸送された。ミネソタ州では、レーク・スペリオル・アンド・ミシシッピ鉄道がセントポールからスペリオル湖岸のダルースまでの155マイル(249km)の路線の建設を1870年に終了していた。この路線はNPにリースされ、やがてNPに買い取られた。 1871年、NPはミネソタとノース・ダコタ州境のムーアヘッド(Moorhead)までの230マイル(370km)の路線を竣工し、東端部分の敷設を完了した。路線の西端は、カラマの北25マイル(40km)地点に到達していた。ウィンフィールド・スコット・ハンコック将軍(Winfield Scott Hancock)が守るノース・ダコタ州における測量も完了していた。本社と工場はミネソタ州ブレイナードに置かれた。 1872年、現ノースダコタ州を横切る164マイル(264km)の本線と、ワシントン州に45マイル(72km)の路線を建設した。11月1日、ジョージ・ワシントン・キャス将軍(George Washington Cass)が第三代社長に就任した。キャスはペンシルバニア鉄道(PRR)の副社長だった人物で、NPにとってもっとも困難な時期を経験することになる。 同年、NPはヨーロッパに事務所を設け、ネイティブ・アメリカンの土地であったノースダコタ地域への入植者を募った。その土地で測量や建設に従事する者たちは、時には現地で攻撃を受けたことから、ユリシーズ・グラント大統領に、軍による警護を要請した。1874年には現サウスダコタ州ブラックヒルズでゴールドラッシュが起き、それも原因として先住民と連邦政府とが対立を深めていった。 詳細はリトルビッグホーンの戦い(グリージーグラス川の戦い)参照
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