シーズウェア時代
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高校卒業後(留年等無しなら1987年)から姫屋ソフト入社(1993年)までの経歴は不明。姫屋ソフトでは、同社の新ブランドであるシーズウェアに所属する。 シーズウェアのデビュー作『禁断の血族』では「官能博士」名義でプログラムを担当する[要出典]。プログラミング自体は経験があったが、ゲームのものは未経験であった為、マウスドライバを自作するなど試行錯誤を重ねることになる。 続く『悦楽の学園』では、プログラムに加え@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}本人の希望でシナリオも担当する[要出典]。制作期間が2ヶ月ほどしかない中、短期間でゲームを完成させたことに彼は満足していたが、発売後パソコン通信での電子掲示板を見て同作に対する評価が、自分の予想よりもはるかに悪かった事にショックを受ける。特に「デジタルコミックに過ぎない」という評価がこたえたという[要出典]。その中で、ひろゆきは作り手の苦労などは対価を支払って購入するユーザーには関係がなく、環境の悪さを言い訳にしていたのに気付かされる[要出典]。これを機に、短い期間でどうしたら面白いゲームを作れるか思案するように考えを改めた彼は[要出典]、以後シーズウェアのコンテンツにおいて企画・脚本・ゲームデザイン・プログラムを一人で手がけることになる。 そんな環境の中で生み出されたのが『XENON -夢幻の肢体-』『DESIRE 背徳の螺旋』である。『XENON』ではシナリオのオートマッピングを実装する予定だったが開発期間内に間に合わず断念しており、これは後に『YU-NO』で「A.D.M.S」として日の目を見ることになった。翌年、マルチサイトシステムを再び採用した『EVE burst error』が爆発的なヒットを記録する。1997年、『DESIRE』および『EVE burst error』はシーズウェアに残ったスタッフの手によってセガサターンに移植されたが菅野ひろゆきの名前はスタッフロールには載っていない。その後も『EVE burst error』はSS版を基にしたWindows 95版、PlayStation 2専用ソフト『EVE burst error PLUS』、PLUSを基にした18禁版『EVE』、PlayStation Portable専用ソフト『burst error EVE the 1st.』などとしてリリースされ続けたが、ひろゆきはEVEシリーズも含めた全ての続編ゲームに一切関わっておらず、また今後も関わる予定はないと雑誌インタビューで述べていた[要出典][要ページ番号]。
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