シュペルケン師団の攻撃
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「ミンデンの戦い」の記事における「シュペルケン師団の攻撃」の解説
6時頃、最初に製粉所の近くに到着したのはフリードリヒ・フォン・シュペルケン大将(1698年-1776年)率いる右翼集団である。それはイギリス軍の6個大隊と、ハノーファー近衛連隊の内、ゴールトアッカー大佐率いる2個大隊から構成されていた。この師団の第1集団(ウォルデグレイブ旅団)が隊列を整えていた時、ブラウンシュヴァイク公の命令が届く。それは「前進は準備が整い次第、太鼓を打ち鳴らしつつ遂行すべし」というものであった。この命令が単に誤解されたのか定かではないが、同旅団は突然前進を開始した。続いて公は、この旅団を停止させる。同時に師団の第2集団が終結した。これら8個大隊は、トウヒの森に隠れる。この後、ブラウンシュヴァイク公が攻撃を命じたのか、それとも再び誤解が作用したのかは不明である。いずれにせよシュペルケン師団は、連合軍の残りの部隊がフランス軍と同様、まだ行軍を終えていなかったにも拘らずフランス軍の中央集団に向けて再度、前進を開始したのである。この行動に隣の戦列からハルデンベルク大隊が加わり、攻撃に移ったのは総勢9個大隊となった。戦列を組んで前進する部隊は第1集団に6個、第2集団に3個の大隊を配していた。連隊砲(ドイツ語版)は森を早く抜けることができず、取り残される。この戦列は1500歩ほど開けた土地を踏破せねばならず、16門の大砲をマルベルゲン及びハーレンの北方に配置していたフランス軍の二つの砲兵隊から、すぐに十字砲火に晒され最初の大損害を被っている。その間にシュペルケン大将はフランスの砲兵隊を制圧するため、イギリスの軽砲兵旅団の大砲9門を移動させた。 「我々は地獄のような18ポンド砲の激しい砲火の中を1/4マイル以上も前進した。それらは当初、我々の前面に着弾していたが前進するにつれ側面、そして最後には我々の背後に落着するようになった。このような砲撃が諸連隊を、戦場でそれぞれの判断に従って配置に就いた活発な敵部隊の突撃に耐えられなくすることは想像がつくが、堅忍不抜で決然とした姿勢が全ての困難を乗り越えたのである。- ヒュー・モントゴメリー中尉(第12連隊) フランス軍の中央はフィッツジェームズ公(1712年-1787年)指揮下の騎兵63個中隊(約7,000名)であり、それらは三つの集団に分かれて編成されていた。フィッツジェームズ公は敵師団の前進を見ると、指揮下の第1集団のうち11個中隊に攻撃を命じる。なぜ彼が第1集団のちょうど半数のみを投入したのかは、判然としない。恐らく残りは、まだ行軍を終えていなかったのである。この攻撃はカストリー公爵中将(1727年-1800年)に率いられて実施され、イギリスおよびハノーファーの諸大隊との距離は10メートルまで縮まる。しかしこれらの大隊は銃撃に続いて銃剣をもって反撃し、フランスの騎兵隊は多大な損害を被って退かなくてはならなかった。その間にフィッツジェームズ公は第2集団の「ロヤル・エトランジェ」(騎兵8個中隊)及び「ブルゴーニュ」(騎兵6個中隊)旅団の準備を整え、攻撃を繰り返した。しかしこの攻撃も大きな損害を伴い撃退されている。
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