サチェル・ペイジの殿堂入り
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「1971年のメジャーリーグベースボール」の記事における「サチェル・ペイジの殿堂入り」の解説
ボウイ・キューンコミッショナーは、2年前の1969年に「1946年以前にニグロリーグに所属し、すでにメジャーリーグに10年以上試合出場をしていない黒人選手」の中から野球の殿堂入りに相応しい選手を選出するための特別委員会を設置した。そしてこの年にその第1回表彰選手としてサチェル・ペイジを選出した。 サチェル・ペイジは1906年(1904年とする説がある)にアラバマ州モービルの生れ。本名リロイ・ロバート・ペイジ。7歳でモービル駅のポーターとして働き、その時に両手一杯に肩から掛けるカバン(これをサッチェルという)を持って歩き、あまりに沢山のカバンを抱えるので歩く姿が顔は見えずにカバンだけが歩いているように見えるので「サッチェル」とあだ名されたという。ニグロリーグに入ってからの伝説は沢山あった。21連勝した、62イニング無失点に抑えた、或いは105試合登板して104勝した、とか。1934年のシーズンオフにメジャーリーグのカージナルス(その年ワールドシリーズ制覇)と対戦しデイジー・ディーンと投げ合い1-0で勝った。ペイジの前では快速球を誇ったデイジー・ディーンも平凡な投手に見えたという。またロジャース・ホーンスビーは5三振に打ち取られた。また1936年のシーズンオフにはボブ・フェラーにも投げ勝ち、フェラーは「自分より速いのでは」と驚いた。これを見ていたクリーブランド・インディアンスのビル・ベックGMが戦後1948年に入団契約した。この時サチェル・ペイジは42歳であった。ペイジが初めて先発登板した1948年8月13日に敵地コミスキーパークに集まった観衆は5万1,013人、1週間後に本拠地ミュニシパルスタジアムに集まった観衆は7万8,382人、どちらもホワイトソックスとの対戦でペイジはどちらも完封勝利であった。1949年にペックがインディアンスを去るとペイジも後を追い、1951年にペックがブラウンズのGMになるとペイジもセントルイス・ブラウウンズに入り3年間投げた。1965年8月25日にアスレチックスのオーナーであるフィンリーの発案で客寄せに入団契約して登板し3イニング無失点で降板した。時に59歳2か月で史上最年長のメジャーリーグ登板記録を作った。メジャーリーグのみの通算では179試合・476イニング投げて28勝31敗、奪三振290の記録だが絶頂期を過ぎた42歳からの記録で、ニグロリーグ時代に正確な記録が無いため、通算2000勝・350完封勝利・ノーヒットノーラン55回を達成したと言われている。ジョー・ディマジオが「あんな速いボールは見たことがない」と言い、ペイジをメジャーリーグに導いたビル・ベックは「もし最初からメジャーリーグにいたら、全ての投手記録を書き換えていただろう」と言っている。伝説の史上最高の投手であった。
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