コペンハーゲン解釈とは何か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 09:45 UTC 版)
「コペンハーゲン解釈」の記事における「コペンハーゲン解釈とは何か」の解説
コペンハーゲン解釈という言葉は、1955年にハイゼンベルクによって初めて使われた。ハイゼンベルクは、量子力学には1927年から統一された解釈があると論じ、そのような認識が拡散したが、実際にはコペンハーゲンでボーアに影響を受けた者たちの間でも解釈にはかなり不一致がある。この言葉が広まった後に、様々な論者が様々な観点をコペンハーゲン解釈に結び付けた。アッシャー・ペレス(英語版)は2002年に、コペンハーゲン解釈の意味は論者ごとに異なり、ときには正反対の定義が提示されると記した。 コペンハーゲン解釈はまた、量子力学を数学的に整理したフォン・ノイマンの考え方、およびその計算手法に従うという意味で用いられる場合もある。これには単に計算できればいいという道具主義的な立場を含む。デヴィッド・マーミン(英語版)は1989年に以下のように記した。「コペンハーゲン解釈を一文で要約するように言われたらこうなるだろう。『黙って計算しろ!』」。 ボーアやハイゼンベルクらの解釈を「コペンハーゲン解釈」、ノイマン流の考えを根幹とした解釈を「標準解釈」と呼び分ける場合もある。 ノイマンが1932年に行った定式化は 量子系と観測者(観測装置)を分離する。2つの境界はどこに引いてもいい。 量子系の状態は、観測していないときはシュレディンガー方程式に従う 観測により波動関数が収縮して、1つの測定値が得られる どの測定値が得られるかは確率的であり、ボルンの規則に従う というものである。ノイマンの定式化は現代でも通用する。またハイゼンベルクの考えもノイマンに近い。しかしボーアとハイゼンベルクには一致しない点も多い。量子系と観測者の境界は、ハイゼンベルクによれば古典物理学の法則で記述できる領域内なら自由に動かせるが、ボーアによれば実験装置の仕様によって固定される。またボーアは古典物理学のいくつかの概念は、境界のどちらの側でも意味があるに違いないと主張した(量子系と観測者の境界をハイゼンベルク切断といい、その位置で波動関数が収縮する。境界の位置を変えても測定結果と矛盾しないとしても、それをどこに置くかについては様々な主張がある)。 ノイマンはこの境界を、観測者の脳と「主観的な知覚」のあいだに置くこともできると論じた(つまりこの場合、観測者に対応するのは人の意識である)。一方でハイゼンベルクは、観測者は人でも装置でも構わないが記録する機能のみを持ち、主観的な特徴を自然の記述に持ち込んではいけないと論じた。 ボーアは、量子系と観測者(観測装置)を分離する考えを認めなかった。波動関数の収縮という考えを初めて導入したのはハイゼンベルクである。しかしボーアが波動関数の収縮という考えに言及したことは一度もない。ボーアは完全に客観的とみなせる測定装置と対象との間の相互作用を論じ、より主観的なハイゼンベルク(やノイマン)の解釈とは距離を置いた。ボーアは相補性原理を解釈の中心に据えた。その代表的な例が、波と粒子の二重性である。ただ相補性は非常に曖昧であり、ボーアに近い人々の間でも認識が一致していない。 特定の強い哲学的主張はコペンハーゲン解釈とは区別されることが多い。例えば人の意識が波動関数の収縮を起こすとする解釈(en)や、波動関数に対して強い主観的な解釈をする量子ベイズ主義(英語版)は、コペンハーゲン解釈とは区別されることが多い。どこまでがコペンハーゲン解釈に含まれるのか、についての合意はない。
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