コエリョ没後の秀吉の外交政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)
「ガスパール・コエリョ」の記事における「コエリョ没後の秀吉の外交政策」の解説
詳細は「サン=フェリペ号事件」を参照 天正20年(1592年)6月、すでに朝鮮を併呑せんが勢いであったとき、毛利家文書および鍋島家文書によると、「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし」とし、インドを含むアジア諸国への侵略計画を明らかにした。 1592年には豊臣秀吉はフィリピンに対して降伏と朝貢を要求した。秀吉は原田喜右衛門にフィリピン征服を任せたが、侵略の動機はフィリピンの黄金だったという。フィリピン侵略軍の規模についてはフィリピンには5、6千人の兵士しかおらず、そのうちマニラの警備は3、4千人以上だと知り、1万人で十分だと判断、10隻の大型船で輸送する兵士は5、6千人以下と決定したとの報告がフィリピンに伝わっている。豊臣政権はフィリピンの戦力を正確に把握しており、スペインが支配していたフィリピンへの侵略計画をたびたび表明した。 秀吉が宣教師に対して決定的に態度を硬化させるのは、秀吉による明と朝鮮侵略の試みが頓挫し、朝鮮・明との講和交渉が暗礁に乗る緊迫した国際情勢にあり、文禄4年(1595年)7月15日には秀次切腹と幼児も含めた一族39人の公開斬首が行われ、文禄5年/慶長元年1596年7月12日には慶長伏見地震で秀吉の居城である伏見城が倒壊(女﨟73名、中居500名が死亡)するなどの状況下、慶長元年(1596年)に起きたサン=フェリペ号事件からのことである。 1597年2月に処刑された26聖人の一人であるマルチノ・デ・ラ・アセンシオン(スペイン語版)はフィリピン総督宛の書簡で自らが処刑されることと秀吉のフィリピン侵略計画について日本で聞いた事を書いている。「(秀吉は)今年は朝鮮人に忙しくてルソン島にいけないが来年にはいく」とした。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は琉球と台湾を占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出を止めなければ、そこからマニラに攻め入るつもりである」と述べている。
※この「コエリョ没後の秀吉の外交政策」の解説は、「ガスパール・コエリョ」の解説の一部です。
「コエリョ没後の秀吉の外交政策」を含む「ガスパール・コエリョ」の記事については、「ガスパール・コエリョ」の概要を参照ください。
- コエリョ没後の秀吉の外交政策のページへのリンク