グリコのおもちゃ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 06:17 UTC 版)
江崎グリコの創業者である江崎利一は、1919年(大正8年)にカキの煮汁に含まれるグリコーゲンからキャラメルを作り、栄養菓子「グリコ」を製作した。1922年(大正11年)、三越百貨店で販売を開始する。しかし、当時の栄養菓子市場は、大手の森永製菓と明治製菓に占められており、資本金でも1/100程度のグリコがその市場に参入することは非常に困難を伴った。江崎は販売促進のため前述のタバコカードをヒントにカードや乳菓をおまけとして添付した。1927年(昭和2年)頃から、このおまけは、メンコなどのおもちゃや、大阪造幣局で作られた銅製のメダルとなった。当時はおまけと商品が同一のパッケージに入っていたが、子供たちが手探りで中身を調べる行為(現在で言うサーチ行為)を行うことに、小売店からの苦情が発生し、おまけと商品を別パッケージに入れる通称「おまけサック」が登場した。このおまけサック導入によって、グリコの生産量は2、3倍となり、大きな発展を遂げる。その後、懸賞商品の導入や、様々な材質(セルロイド製、鉛とアンチモンの合金であるアンチモニー製、土、木、竹)でおもちゃが作られる様になった。また、クーポン券の収集により賞品と交換する制度もこの次期に考案された。 太平洋戦争中は、おまけの材質も制限され、1942年(昭和17年)には、グリコのキャラメルもおまけが消え配給制となった(白色の箱の配給グリコ)。1943年には物資不足から、グリコの生産も停止することになった。 戦後、キャラメルの生産の再開を真っ先に行ったのはグリコである。他の大手である森永製菓、明治製菓が配給統制により、生産販売に制限を受ける中、グリコは調達できる範囲で材料を集め、おもちゃつきのグリコを菓子でなく、食品つき玩具として販売した。これは、玩具として販売することで配給統制による規制をすり抜ける方法であった。 1949年(昭和24年)11月菓子類の統制がはずされ、森永製菓、明治製菓だけでなく多数のメーカーでキャラメルの生産と自由販売が始まった。それに伴い、1950年(昭和25年)グリコのおまけサックも復活した。 しかし、自由販売後のグリコのキャラメルは必ずしも順調というわけではなかった。これは、後述する紅梅キャラメル、カバヤキャラメルの登場の影響もあった。グリコが成功するのは、1956年(昭和31年)の本物の小鳥があたるという「幸運の小鳥さがしキャンペーン」である。この後も、切手、コインなどこれらの収集ブームに合わせたキャンペーンを行っていき成功していった。
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