グラーフのピアノを使用した著名音楽家
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「コンラート・グラーフ」の記事における「グラーフのピアノを使用した著名音楽家」の解説
おそらく1826年のことであると思われるが、グラーフのピアノがルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンへと貸し出されている。6オクターヴ半の音域を備えるこの楽器はC♯までが3本弦、そしてDからF4までは4本の弦が張られていた - この弦によって当時ほとんど耳の聞こえなくなっていたベートーヴェンにもピアノの音が聴き取りやすかったものと推察される。上述のグラーフ製音響変化装置にもいくらかその効果があった。 1827年のベートーヴェンの死後、グラーフはピアノを弾きあげてウィーンに住むヴィマー家に売却した。この楽器は現在ボンのベートーヴェン・ハウスで展示されている。グラーフのピアノがベートーヴェンのキャリアに与えた影響はおそらく軽微であったと考えられる。グッドは次のように述べている。「彼がその楽器を手に入れてからピアノのために書いた作品は唯一『大フーガ』の4手編曲のみであった(中略)また最晩年の3年間には自分のためとしても極めてわずかしかピアノ弾くことはなかったことが示されている。」 1829年、19歳のフレデリック・ショパンはピアノでコンサートを行うべくポーランドを離れてウィーンを訪れた。グラーフと彼のライバルであったマトイス・アンドレアス・シュタインが楽器を提供すると申し出たところ、外国のピアノに詳しかったショパンは迷うことなくグラーフを選び、ウィーンでの演奏会を成功させたのであった。ゴールドバーグによると、ショパンは「その後のパリでのキャリアの中でもグラーフのピアノを『大事にし』続けていた。」 有名なヴィルトゥオーゾであったフランツ・リストはグラーフのピアノを使用していたが、グラーフの側に悩みを持っていたに違いない。というのも、グラーフのピアノはリストが演奏中の感情の高まりにまかせて激しく叩きつけるのに対し、いつでも耐えられるとは限らなかったのである。1838年にウィーンを訪れたリストに関してフリードリヒ・ヴィークは日記に次のように綴っている。「我々は今日、コンラート・グラーフのところでリストを聴いたわけであるが、グラーフはピアノがその大一番から生還できなかったので冷や汗をかいていた - 今度もまたリストの勝ちだった。」ヴィークはリストがこの滞在中の他の演奏会で2台のグラーフ、さらにジギスモント・タールベルクから借りていたエラールを「破壊」したと書き残している。 フェリックス・メンデルスゾーンも、グラーフの楽器を賞賛した。 彼は1832年に1台を得て、ベルリンの家族の家やリサイタルで使用し、後にもう1台を入手してデュッセルドルフで使用した。 1840年、フリードリヒの娘で若きヴィルトゥオーゾであったクララがロベルト・シューマンと結婚した際、にグラーフは会社所有のグランドピアノを1台彼女へと贈呈した。1856年にロベルトがこの世を去るとクララはこの楽器を友人であったヨハネス・ブラームスに譲渡し、ブラームスは1873年までこの楽器を用いて仕事をした。楽器はさらにブラームスの元からウィーン楽友協会へと寄贈され、現在はウィーンの美術史美術館において展示されている。 1880年代、若きグスタフ・マーラーが所有し、演奏していたのは非常に古い1836年頃のグラーフであった。この楽器は現在ではイングランド、ギルフォード近郊のコッベ・コレクションに収蔵されている。資料館のウェブサイトは、当時のマーラーについて単によりよいピアノを購入する余裕がなかったのではないかと推測している。 グラーフのピアノを所有または演奏した音楽家には、他にフリードリヒ・カルクブレンナーやカミーユ・プレイエルなどがいる。 2018年9月に、ポール・マクナルティが復元したグラーフの1819年製フォルテピアノが、第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール(フレデリック・ショパン研究所が運営)で使用された。
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