クリストファ伯の挙兵とクリスチャン3世の選出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/20 06:32 UTC 版)
「伯爵戦争」の記事における「クリストファ伯の挙兵とクリスチャン3世の選出」の解説
オールボー Vendsyssel リュー ホーセンス Svenstrup ヴィボー コペンハーゲン Ringsted マルメー ヘルシンボリ オーデンセ ハルムスタッド Øksnebjerg Vä Göinge 関連地図1。地図は現在のデンマーク。デンマークはユラン半島南部(関連地図2参照)から対岸のスカンディナビア半島南部のスコーネ、ハッランド(現在はスウェーデン)、ノルウェー、フェロー諸島やアイスランドまで領有していた。 ゴットープ城 リューベック 関連地図2。地図は現在のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州。スレースヴィ公国の南部およびホルシュタイン公国があった地域。 「クリスチャン3世の選出」も参照 1533年4月、フレゼリク1世の死去に伴い、6月に諸侯会議が開催された。そこで宮廷長官モーエンス・ゴイェ (en) はフレゼリク1世の息子であるゴットープ公クリスチャン(後のクリスチャン3世、以下クリスチャン3世)の即位を主張したが、クリスチャン3世がプロテスタントである以上、カトリックの聖職者たちには容認できるものではなく、モーエンス・ゴイェへの支持もマルメー市長のヨーアン・コック(da、プロテスタント)など少数にとどまり、国王決定は延期となった。この頃、ハンザ同盟の再建を試みたリューベックは王国参事会に接近し、デンマークに対しハンザ同盟の特権を認めさせようとしたが、王国参事会は国王不在を理由にリューベックの申し出を拒否、ネーデルラント、 スレースヴィ公国、ホルシュタイン公国との同盟を決めた。その頃、クリスチャン3世の即位を支持していたマルメー市長ヨーアン・コックは貴族独裁政治に反発、リューベック、コペンハーゲンと図り幽閉されているクリスチャン2世の復位を図り、クリストファ伯に挙兵を促した。 1534年1月、マルメーでは大司教の命によりルター派説教師が追放されたことに対し騒乱が発生した。そして4月クリストファ伯はリューベックの傭兵の支援を受け、ホルシュタインを攻撃、コペンハーゲンやマルメーといった都市、シェラン島やスコーネはクリストファ伯の支持に回り、伯爵戦争が勃発した。 クリストファ伯はユラン半島の勢力確保のために、クリスチャン2世の部下であった船乗りクレメント (en) を利用した。船乗りクレメントはクリストファ伯の求めに応じ、 Vendysselやユラン半島北部の農民たちに対し、貴族たちに蜂起するよう扇動した。反乱の中心はオールボーであった。ユラン半島北部や西部の荘園が農民の蜂起で焼き討ちにあった。1534年8月10日、クリストファ伯はクリスチャン2世がスコーネを支配することを受け入れた。また、遡ること一月前、クリストファ伯はクリスチャン2世の代理としてシェラン島のRingstedにおいてシェラン島議会により歓呼して迎えられた。 一方、宮廷長官モーエンス・ゴイェはユラン半島で貴族たちの説得に動いた。7月4日にリューで王国参事会が開催され、クリスチャン3世の即位を承認、8月18日にクリスチャン3世はホーセンスで国王に即位した。
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