キリスト教世界との接触
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 13:43 UTC 版)
イランから北上してアゼルバイジャンに進軍、当時アゼルバイジャンを支配していたアタベク政権のイルデニズ朝から臣従の誓いを受ける。モンゴル軍はムーガーン(英語版)平原で冬営を行い、1221年2月にグルジア王国を攻撃した。モンゴルはグルジア攻撃においてはアゼルバイジャン軍を先頭に立たせ、グルジア軍がアゼルバイジャン兵との戦闘で疲弊した後にモンゴル本体が突撃を行い、勝利を収める。同年3月にマラーガを攻撃、陥落させ住民を殺害する。 モンゴル軍のイラクへの接近を知ったアッバース朝のカリフ・ナースィルはイルビル、モスルの領主に義勇軍を呼びかけるが、ジェベらは進路を変えて。1222年末までにモンゴル軍はアゼルバイジャン、グルジア、シルワーン(英語版)で破壊と略奪を行い、コーカサス山脈を越えて北上した。 北上後、アス人、レズギン人、チェルケス人、キプチャク人の連合軍に勝利、キプチャク草原に侵入する。キプチャク人のカンの一人クタンは娘婿のガーリチ公ムスチスラフに助けを求め、ルーシ諸侯とキプチャク人の同盟が成立した。1223年5月31日にモンゴル軍とルーシ・キプチャクの連合軍はカルカ川(現カリチク川 と推定される)で衝突し、モンゴル軍が勝利を収めた(カルカ河畔の戦い)。ジェベ、スブタイの軍はアゾフ海沿岸部とクリミア半島で略奪を行い、1223年末にヴォルガ・ブルガールに侵入する(モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻)。後年ルーシで編纂された『ノヴゴロド年代記』1224年の条には、ジェベらの攻撃が地獄から来襲した「タルタル」の到来として記録された。 ヴォルガ・ブルガールで勝利を収めた後にジェベ、スブタイは軍を引き上げ、ペルシャからモンゴル高原に帰還する途上にあったチンギス・カンの軍隊と合流した。1224年(もしくは1225年ごろ)、ジェベはモンゴル高原への帰国の途上のアラル海のほとりで病没した。 ジェベの死後、彼の子の忽生孫に千戸長の地位が与えられた。
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