ガリア・キサルピナ総督と執政官、死去
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「クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ケレル」の記事における「ガリア・キサルピナ総督と執政官、死去」の解説
紀元前62年、メテッルス・ケレルはプロコンスル(執政官代理)権限でガリア・キサルピナ属州の総督を務めた。紀元前61年には次期執政官選挙に勝利する。これは東方遠征から戻ったばかりのポンペイウスの支援を受けてのことであった。しかし両者の関係はすぐに破綻した。ポンペイウスはムキア・テルティアと離婚し、ケレルはポンペイウスと敵対するオプティマテス(閥族派)に加わった。当時のオプティマテスの指導者はルキウス・リキニウス・ルクッルス(紀元前74年執政官)とマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス(小カト)であった。その年末、紀元前64年の元老院決議で禁止されていたコッレギウム(結社)の一つ、四つ辻のラレース組合がコンピタリアの祝祭を開催しようと試みた。ケレルはまだ執政官に就任する前で一私人に過ぎなかったが、彼自身の持つ威光によってそれを中止させている。 メテッルス・ケレルは紀元前60年の執政官に就任すると、ミトリダテス戦争を戦ったポンペイウス隷下の退役軍人に土地を配分する農地法の提案(Rogatio Flavia agraria)に反対した。ケレルはかつての義弟と激しく対立し、この提案をした護民官ルキウス・フラウィウスの逮捕を命じた。ポンペイウスがカエサルおよびクラッススとの同盟(後に第一回三頭政治に発展する)に動くのは、ケレルなどのオプティマテスに対抗するためであった。 更にメテッルス・ケレルは、護民官になるためにプブリウス・クロディウス・プルケルをパトリキ(貴族)からプレブス(平民)に身分転換しようとした提案(Rogatio Herennia de P. Clodio ad plebem traducendo)に対し、彼の姉と結婚していたにも関わらず反対した(クロディウスは翌年プレブスになり、紀元前58年に護民官となってキケロを攻撃した)。 執政官任期完了後の紀元前59年春、メテッルス・ケレルは執政官カエサルが提唱した農地法に反対した。ケレル自身は前執政官としてガリアに赴く予定であったが、出発前に急死した。妻に毒殺されたとの噂が流れたが、キケロはケレルの死に立ち会っていた。 おお、神々よ、何故あなた方は罪を見逃し、裁きを遅らせるのか!私は見た。クィントゥス・メテッルスが国家の心と胸裏から奪われたのを確かに見て、その悲しみを経験した。これまでの人生で感じたことのないような苦い悲しみをだ。この自分自身を国家のために捧げることだけを考えてきた男が、3日前には健康で、元老院で、演壇上で、市民の前で元気な姿を見せており、壮年期を迎え、壮健で、壮漢だったにも関わらず、善良な人々からも、国全体からも奪われてしまった。彼は死の床で、他のことがわからなくなっても、祖国のことだけを最後まで心配し、泣きながら私を見て、かすれ声でこれからこの国を襲う嵐を、災厄を、訴えたのだ。 キケロ『カエリウス弁護』、59.
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