カリブ海の植民地事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:02 UTC 版)
「ブランデンブルク=プロイセン」の記事における「カリブ海の植民地事業」の解説
詳細は「ザンクト・トーマス (ブランデンブルクの植民地)(英語版)」を参照 アフリカで植民地を建設したことで、ブランデンブルク=プロイセンはいわゆる三角貿易に進出できるようになったが、3つ目の角であるカリブ海では貿易港に欠いた。1684年にフランスからサン・クロワ島とサン・ヴァンサン島を購入しようとして拒否され、1685年11月にデンマーク=ノルウェーからサンクト・トマス島を購入しようとして失敗した後、ブランデンブルクとデンマークの間で協定が締結され、ブランデンブルク・アフリカ会社(ドイツ語版)がサンクト・トマス島の一部を30年間租借して基地として使用、一方主権はデンマークが所有したままで、統治権はデンマーク西インド会社が所有したままとなった。その後、ブランデンブルク船がグロース・フリードリヒスブルクから奴隷450人を積載して出発、1686年にサンクト・トマス島に到着した。ブランデンブルク=プロイセンが租借した地域は首府シャルロッテ・アマーリエ近くにあって、Brandenburgeryという名前であり、それ以外にも西方のクルム湾(Krum Bay)とボルドー地所(Bordeaux Estates)を租借した。1688年時点ではヨーロッパ人300人と奴隷数百人がブランデンブルク租借地に住んでいた。1695年11月、フランス軍がサンクト・トマス島に上陸したが、ブランデンブルク租借地のみを略奪し、デンマークの植民地は略奪しなかった。1731年にブランデンブルク・アフリカ会社が破産すると、ブランデンブルク租借地は1735年に放棄され、残った資産は1738年にオークションで売却された。 1687年にクラブ島(Krabbeninsel、現プエルトリコのビエケス島)を領有しようとする試みもあったが、デンマーク、イングランド、スペインも領有権を主張しており、1692年の2度目の遠征でデンマークが島を占領していることを知ると、クラブ島領有の計画は放棄された。また、1689年にはピーテル島(英語版)を占領したが、小さすぎて貿易や定住に適さなかった。1691年にはクールラント・ゼムガレン公国と協定を締結してトバゴ島を分割したが、クールラント人がすでにトバゴ島に住んでいない上、イングランドも領有権を主張していたため、協定は無効になり、代わって開始されたイングランドとの交渉は合意に至らなかった。1695年、トルトラ島で足場を築くことが試みられたが、イングランドに移住を拒否され、1697年にはシント・ユースタティウス島の購入をイングランドに拒否された。
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