カリブ海の戦闘とは? わかりやすく解説

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カリブ海の戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/08 03:33 UTC 版)

英西戦争 (1727年-1729年)」の記事における「カリブ海の戦闘」の解説

詳細は「ポルトベロ封鎖英語版)」を参照 ホジアー少将艦隊カリブ海到着した時点で、英西戦争実質的に始まった1726年6月16日イギリス15隻と兵士4,750人はバスティメントス島(英語版)に到着した。ホジアーはウォルポール命令従いポルトベロ封鎖英語版)しつつ占領しないことで、インディアス艦隊新大陸からの銀をヨーロッパ輸送することを防ごうとした。 インディアス艦隊はこのとき、ポルトベロ港にいたが、ポルトベロ総督イギリス艦隊警戒してホジアーに現れ理由問いただした。ホジアーはその年にスペイン植民地貿易していたイギリス船ロイヤル・ジョージ(Royal George)を護衛するためだと答えたが、ロイヤル・ジョージがポルトベロから出港した後も留まったためスペインは銀を載せたインディアス艦隊出港させず、代わりに銀を下ろして陸路ベラクルス運んだ。ホジアーは封鎖継続、6か月間留まったが黄熱蔓延したため艦隊だんだんと衰弱し、ホジアーはジャマイカにある基地戻って船員徴募するとともに船員病気治そうとし、1726年12月24日到着した一方スペインその間隙に乗じて小規模な艦隊ポルトベロからの銀を載せてベラクルスから出航させ、ハバナまで航行することに成功した。また1726年8月13日にはアントニオ・カスタネータ(英語版率いスペイン艦隊兵士2千人載せてヨーロッパからハバナ到着した。彼はベラクルスからの艦隊合流イギリス艦隊気づかないうちに1727年1月24日ハバナ離れた1727年3月8日、3,100万ペソ載せたカスタネータ艦隊スペイン本土到着した。 ホジアー提督1727年2月末に航行再開4月2日ハバナ到着したが、銀を載せたスペイン艦隊逃げおおせた後であったため代わりにカルタヘナ巡航するも、何の成果得られなかった。黄熱蔓延続き、ホジアー自身1727年8月23日病死した。代わって指揮を執ったスーパーブ英語版)の艦長エドワード・セントロー(英語版)はその数週間後、ジャマイカ戻った1728年1月29日、エドワード・ホプソン(英語版中将指揮執り2月艦隊中央アメリカ海岸戻したが、ホプソンも黄熱病死したためセントローは再び指揮を執った。暫定講和1729年3月締結されセントロー4月14日病死すると、艦隊イギリス戻った。ホジアーの遠征により海員兵士約4千が死亡、その大半黄熱による病死だった。

※この「カリブ海の戦闘」の解説は、「英西戦争 (1727年-1729年)」の解説の一部です。
「カリブ海の戦闘」を含む「英西戦争 (1727年-1729年)」の記事については、「英西戦争 (1727年-1729年)」の概要を参照ください。

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