カラブリア・シチリア征服
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「ルッジェーロ1世 (シチリア伯)」の記事における「カラブリア・シチリア征服」の解説
ルッジェーロはノルマンディー公国の小貴族タンクレード・ド・オートヴィルと彼の2番目の妻Fredisendaとの間の最も若い息子であった 。ルッジェーロは1057年の夏ごろに南イタリアに辿り着いた。ベネディクト会の僧侶en:Goffredo Malaterraはルッジェーロのことを下のように記している。 1057年、ルッジェーロは兄ロベルト・イル・グイスカルゴと共にReggioを除くカラブリアの大半を征服した 。この頃のルッジェーロはスカレーア地方のコゼンツァ周辺の城で山賊のような生活をしていたという 。1062年、ルッジェーロは兄ロベルトと交渉し、征服したカラブリアを折半して統治することとし、彼らはそれぞれがカラブリア内の半分の城と半分の村を支配した。ちょうどこの頃、ルッジェーロはen:Judith d'Évreuxと結婚した。 ルッジェーロ・ロベルト兄弟は、カラブリアを征服し終えたこの頃に、当時イスラム勢力によって支配されていたシチリア島の征服計画を考案し始めたとされる。この時代のシチリア島は、ムスリムが統治していたが島の住民の大半はビザンツ系ギリシャ人のキリスト教徒であった。シチリア島のアラブ人統治者たちはチュニスのスルタンからほぼ独立していた。1061年、ルッジェーロ・ロベルト兄弟はレッジョ・ディ・カラブリアからシチリア島に向けて出発し、メッシーナを征服した。1063年6月、ルッジェーロはチェラーミの戦い(英語版)でムスリム勢力を打ち破り、1068年にはメジルミーニの戦い(英語版)でムスリムを撃破した。1072年、兄弟はパレルモを獲得したのち、ロベルト・イル・グイスカルゴは弟のルッジェーロに対して、自身の配下の領主としてシチリア伯に就任させた。シチリア伯就任後のルッジェーロは、パレルモとメッシーナの半分、そしてシチリア島の北東部分を領有し続けた。ルッジェーロが組織的なシチリア侵攻を行えたのは1085年以降であった。 1086年、シラクサがルッジェーロに降伏し、1091年2月にはノートが降伏。これによりルッジェーロはシチリア島を完全に征服した。ルッジェーロの征服戦争は兄ロベルトの多大なる支援のおかげであった。ロベルトが亡くなった後、ルッジェーロ伯はオートヴィル家の年長者となった。そんなルッジェーロは、ターラント公ボエモンやカプア公ランド4世(英語版)や他の反乱諸侯たちと対立するルッジェーロ・ボルサを支援した。(ボルサもボエモンも共にルッジェーロの甥であった。)1085年、ボルサはルッジェーロの支援と引き換えに、カラブリアの諸城の城主の座ををルッジェーロに引き渡し、1091年にはパレルモにおける相続財産をルッジェーロに譲り渡した。 ルッジェーロのシチリア島統治はロベルトの頃の統治より完璧なものであった。ロンバルド人やノルマン人たちが多数移民としてシチリア伯国内に流入したことで、ラテン文化が流入し、それまでシチリア島で繁栄していたビザンチン・ギリシャ文化を淘汰していった。1072年と1091年に、シチリア伯国では家臣の騎士たちに対して封土の授与が行われ、細分化されていない巨大な領邦は国内に存在しなくなった。国内の全ての諸侯はルッジェーロに忠誠を誓い、この後ルッジェーロ伯に対する大規模な反乱は勃発しなかった。
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